13話『天狗と妖怪絵師』
「蕎麦を売ろう」
「……売っているのよ?」
とある日のことである。朝の仕込みも終わり、昼を待つ時間でやや暇をしている中、九子の提案にお房は疑問の声を返した。
この店は蕎麦屋ではないか。つまり、現状蕎麦を売っている状態だ。九子はなにを言っているのか。
彼女はお房の疑問に苦笑しながら応える。
「いや、蕎麦の麺だけを売ろうと思ってのう。お雪と六科が次々と生産するもので、保管庫の中は蕎麦麺でいっぱいになってきた」
この店では基本的に、冷蔵乾燥保管庫にいれた半生蕎麦を使っている。風味は薄いが、あまり蕎麦が上等かどうかを気にしない層の客ばかり来るから、保存性を高めたその形式の方が簡単でいい。
しかしながら腕利きの蕎麦こね職人と化したお雪と、蕎麦切りマシーンになった六科に任せれば材料があればあるだけ蕎麦に変えてしまうのだ。店で出す分以上に溜まってきた。
九子の提案は、その増えまくった蕎麦を直接売るということであった。
「屋台の二八蕎麦などを売っておる者も、聞けばわざわざ手打ちしておるようだ。そやつらに麺だけ売ってやればどうかと思ってのう」
「商売敵に商品を渡すの? 相手も受け取るかしら」
「まあ待て」
不満そうにしているお房に、九子はゆっくりと解説することにした。
「まず己れの考えを聞いておくれ。江戸ではあちこちに屋台で蕎麦を出しておる店があるだろう?」
「うん」
「そやつらをうちの子分にできる作戦なのだ」
「そ、そうなの?」
「恐らくのう」
九子が机に頬杖を突きながら呟く。店の座敷には彼女の指定席として、古道具屋で購入してきた足が高めの文机を置いている。
この頃の江戸では食事をテーブルや、ちゃぶ台のような大きな台に乗せて食べるという習慣はなくて床に盆ごと置くか、膳として出すかであった。九子からすればこうしてちょうどいい机があったほうが便利だったのだ。重たい胸を置くのにも都合がいい。
それはさておき、九子は告げる。
「まずうちの蕎麦麺だが、当初原価が七文だったのが企業努力で五文まで下がっただろう」
「うん」
九子が粉屋と交渉してきて、結構な量をまとめ買いすることで値下げさせたのだ。
粉屋としても、一旦粉にした麦や蕎麦は置いておけば湿気て黴が生えたり、ネズミに食われたりする。また穀物の粉は呆れるほど引火しやすく、火事も常に心配な商品だった。それゆえに、多くを買ってくれるならば保管賃を入れても多少値下げして売ってくれた。
「だがどう考えてもうちで出る蕎麦よりも原材料の方が多い。ずっと使わずに保管しておったら悪くなるしのう。そこで作った余りを売り払うことで、廃棄の蕎麦麺を減らすことができる」
「なるほどなの。余らせて捨てるのは嫌なの」
ふんふん、と納得したようにお房が鼻息を荒くしたので九子は微笑んだ。
この娘は特に損することに敏感であり、余り物を出さないようにしている。この前は店で出す味噌汁が思った以上に余ったので、夕食にお雪も入れて四人で味噌汁を一人三杯ずつ飲まされた。
「そうだのう。麺を一人前、八文程度で販売してはどうだろうか。そこらの二八蕎麦屋台も自分で作れば麺は七文ぐらいかのう、それに手間賃一文追加というところで」
値段差一文と考えれば、自作よりも儲けが減るといってもその分楽になるので買うのではないかと考えたのである。
「うちの儲けは三文なの。小さくない?」
「そうでもない。屋台の蕎麦屋が一日三十杯蕎麦を売るとすれば、うちの儲けは九十文になる」
この九十文は純利益なので、一日の目標額の五分の一近くを稼げることになる。蕎麦を打つ手間賃をどうせ家族内でやっているので無料に見積もれば、蕎麦粉とうどん粉を右から左に流して利益を得ているようなものだ。
「それに屋台二つに卸すようにすれば、倍の百八十文だ」
「結構大きいの」
お雪と六科に頑張らせれば一日に蕎麦百食分ぐらい打たせることも可能だろう。お雪も華奢に見えるが、遊郭などで一日中按摩をすることもあるので体力は十分ある。
「在庫処理と、売上上昇。それに加えて、値段の均一化もある」
「均一化?」
「屋台の蕎麦は安いのだ。その分、量が少ないのだが……外の方が安いからそっちを食おう、などと思われては損だ。屋台も買って使うなら、この蕎麦一人前を売って儲けるため店通り十六文にした方がいい。麺を半分にして売るかもしれんが、その場合屋台は半分しか入っておらんと噂を流せばよかろう」
江戸時代の蕎麦といえば十六文、とされたのは江戸後期になってからだ。まだこの享保の頃には統一的な蕎麦一人前、という量が無かったことも関係していて、蕎麦一人前四文で提供している屋台などは殆ど椀子蕎麦みたいな量だった。
「ついでにだが、屋台の連中がうちの蕎麦を買うようになったら、そやつらが持っておる蕎麦打ちの道具をどうすると思う?」
「うーん……蕎麦を打たなくても手に入るのなら、古道具屋に売っちゃうんじゃないの」
「そう。うちの蕎麦を買うことに依存させて蕎麦打ちの道具を手放させると……その後で『蕎麦をこれから一文値上げする』とか通達してももはや打つ道具が無い。買い直すにも金が掛かる。泣く泣く、儲けが減っても買い続けねばならない……」
「ヤクザ商売なの!」
お房が渋い顔をして拒否するように横に振った。九子は「はっはっは」と笑って、誤魔化した。
「まあそこまでするかはともかく、近くの蕎麦屋に麺を売るのは構わんだろう。ちょいと交渉してくる」
九子はそう言って、サンプルの蕎麦麺を笊に取って外に出ていった。
九子は口が上手く交渉事に慣れている。若い頃はアルバイトで、高額商品を電話で売るセールスをやっていたこともある。
彼女が近所で店を出している屋台に声をかけてすぐは胡散臭そうな目で見られたものの、五分も会話をすれば相手は感心しきりで「なんてオトクな話だ」と感動すらしていた。
というか、蕎麦麺の売買は屋台蕎麦にとっても利点が多いのだ。九子は一つ一つ指摘してそれを教えた。
まずこの時代、江戸には製麺所がない。江戸の後期になると更に蕎麦屋の数も増えて、麺を多量に作って売る店も見られるようになったが、享保の頃では蕎麦屋は自分で麺を打つのが普通であった。
なので、小さな屋台であっても蕎麦は自分で打つ必要があった。
粉屋に行って粉を買い、水で練って伸ばして切る。その手間が買えばなくなるのだ。
更に屋台の蕎麦屋は、基本的に打った分が売り切れれば終わりである。しかし九子と契約した場合、足りなくなってまだ商売を続けたいときは店に行けばその場で買える。すなわち一日の稼ぎが増やせる。
少々手間賃を取られることを省みても、十二分に利点がある。
もちろん江戸で屋台の蕎麦屋をやっている者の中には、自分の麺にこだわって技巧を凝らしている者も居ただろうが……少なくとも近所には居なかったのである。
手頃な屋台蕎麦屋二件と契約を結ぶことに九子は成功した。
(フランチャイズのようなものだな。六科の店だけでは客数に限界があるしのう)
そんなことを考える。屋台の連中も、店から買っていくのが楽だと判断するとそのうちつゆだの、握り飯だのも六科の店から調達するようになるかもしれない。
そうなれば実質、店の屋台支店として外で稼いでくれるのだ。屋台が繁盛しようがすまいが、商品を買い取らせれば後の責任は取らず儲けが出る。
九子は鼻歌混じりに店に戻ろうとしていた。
そのとき──なにか、背筋が冷えるような気配と共に不吉な声が聞こえてきた。
「とお──りませ、通りませ……」
か細く歌う声は決して大きいものではなかったが、妙に耳に響くものがあった。
九子は周囲を見回すと、通りの一部が薄暗くなっているように錯覚した。
「此処は……何処の……細道か
天神様の……細道だ」
否。通りが暗くなったのではなく、真っ黒いものが通りの中央を歩いているため、なんとなく暗く感じたのだ。
それは異様な風体をしていて、九子は昼間から幽霊を見たかのように硬直した。
もしかしたら自分だけしか見えていない存在なのかと思ったが、他の通りを行く町人らも不気味そうに遠巻きにしていた。
「一寸通して……下しませ
御用の無いもの……通さぬと」
ボソボソと歌いながら歩いているのは、まさに幽霊のような女だった。
真っ黒い喪服を身に着け、結っていない髪を腰まで垂らし、病的な白い顔色をして、目はどこか黄色みがかっていた。
そのまま夜に柳の下にでもいれば、さぞ恐ろしがられるだろうが、昼間から現れるものか。
「此の子の……七つの……御祝いに
御札を……納めに……参ります」
周囲から不気味そうな目で見られているというのに、幽霊の女はなにも気にすることが無いようにゆっくりと歩いている。
妖怪然とした姿なのに、文明的な縁の大きい眼鏡を付けていることと、どういう意味があるのか小さな虫籠のようなものに、筆を吊るしている妙な道具を片手に掲げている。
「行きは善い善い……帰りは怖い
怖いながらも……通りませ──」
ずる、ずると足を引きずるように歩きながら、口がにや~っと裂けたように笑みを浮かべている。
はっきり言って誰がどう見ても不気味だ。九子は、
(ちょっと頭が可哀想な女なのかもしれん……関わり合いたくないのう)
そう思って、なるべく意識しないようにしながら店に帰ることにした。
九子が足を店に向けると、背後でずるずると引きずるような足音がついてくる。進む方向が同じらしい。
下手に早足になれば刺激してしまうかもしれない。自然な速さで店へ向かう。
「通りませ……通りませ──」
声がついてくる。だが店はもうすぐそこだ。九子は暖簾をくぐって入り、不吉な気配から逃れて、一息ついた。
「あら、おかえりなの」
「ああ、今なにか表に異常な女が──」
お房にそう言おうかと思って振り向いたら、なんとその異常な喪服女が店に入ってきていた!
「うおっ!? 幽霊!?」
これには九子も思わず驚いた。飛び退いて、警戒しながら腰の術符フォルダに手を添える。
そうすると喪服の女もバッと顔を上げて、黄色がかった目を見開いた!
そして滑舌の良い声で突如叫び出す!
「なにっ!? 幽霊!? どこかね!? どこに幽霊がいるというのかね!! フフフさあ出てきたまえ幽霊!! 私の霊感から逃れられると思わないことだね!! 聞いているのかね幽霊!!」
「お主だお主!?」
自分の存在を棚に上げて騒ぎ始めた女にツッコミを入れる九子。
すると女はキョロキョロと疑わしそうに周囲を見回し、やがて自分を指さして首を傾げた。
「……私かね?」
「自覚無いのか」
「なんだつまらない。ただの日常から喪服を着ていて通りで不気味な童歌をボソボソ呟いている不健康で陰気そうな変人女ではないか」
「自覚あるのではないか!?」
九子は改めてツッコミを入れた。
しかしながらそんな変人女でも、店に入ってきたのはなにか目的があるはず……と、警戒心を消さないまま見ているとお房が声を掛ける。
「お姉ちゃん!」
「む?」
「前に言っていた、従姉妹のお姉ちゃんなの。妖怪絵師をしている……まあ、見た通りの人なの」
「見た通りとはどういうことかね房! まるで私が幽霊に見間違えられても当然の、ちょっと痛い服装して個性を強調しつつそんな悪目立ちする自分が満更でもない傾き者気取りの年増女みたいではないか!」
「自己分析凄いのう」
大声で喋り始めたらどうも不気味な気配は薄れて、ようやく普通の人間に見えてきた。
年の頃は三十前後か、もっと若いのかもしれない。目元に深い隈があるので疲れて見えるが、眼鏡の内側から爛々と狂気的に輝く目と笑みが強い印象を持つ。徹夜してテンションが上がりきった人みたいだ。
鴉の濡れ羽色をした漆黒の髪は、江戸の女では珍しく結っていないのも妖怪らしい姿であった。肌の白さも相まって、九子は雪女のようだと思った。
彼女は腰に手を当てて胸を張り、堂々と名乗る。
「フフフ私こそ江戸に名高き妖怪絵師、ちょっと付き合いたくない絵師番付四位の鳥山石燕だ!」
「こやつ以上のが三人居るのか絵師界隈」
嫌な情報を手に入れてしまう九子であった。会って数秒だが、既に大変な女だということは理解した。
鳥山石燕。絵という形で様々な妖怪に名前と形を与えた日本の妖怪史へ燦然と輝く有名な妖怪絵師である。意外なことであるが、鳥山石燕が男であったという証明になる記録は少ないという説も存在しないではない。
しかしながら九子は江戸時代の絵師の名前など写楽や歌麿ぐらいしか知らないので聞き覚えが無い名前だった。若い頃はそういった高い価値を持つ絵師のレプリカ浮世絵を高値で売るアルバイトをしていたので覚えた程度だ。
「お姉ちゃん、確か妖怪探しの旅に出たんじゃないの」
「お姉ちゃんではなく先生と呼びたまえ! そう……妖怪『酒虫』が出たという噂を聞いて浦賀の久里浜へ出かけていたのだ!」
「酒虫?」
九子の問いに彼女は「フフ」と笑いをこぼしながら、眼鏡を指で正して言う。
「酒虫は唐国にいるとされる酒の霊だ。人に取り憑くと、健康的な体と共にどれだけ飲んでも酔わないうわばみにしてしまうのだが、この虫を取り出して水に付けておくと美酒へと変わるという……! 鳥山調査員はその真実を確かめるために久里浜へ向かった!」
「一人で行ったの? 病弱なんだから危ないの」
「大丈夫。弟子も連れて行ったしずっと駕篭に乗っていたからね。まあ駕篭の振動で足腰が丸一日ぐらい立たなくなったが……ところが久里浜で待っていたのはとんだ罠だった。酒虫の噂を意図的に流し、集まった酒飲みを捕まえる恐るべき集団がいた……! 狐面を付けた怪しげなそいつらは私を捕まえて縛り付けると、目の前でこれ見よがしに酒盛りを始めたのだ! 私には一滴も飲ませずに! つらかった……!」
「なんなのだ、その珍妙な集団は……」
九子が聞くとやはり彼女は嬉しそうに眼鏡を光らせて、立て板に水を流すが如く喋りだした。
「酒虫の取り出し方は、取り付いている酒飲みの前に酒を出してかつ飲ませないようにすれば体から飛び出てくるという話だからね。本当の酒虫を探していたのかもしれない……現地で取材をしたら久里浜では古くから、酒飲みから酒を抜く奇習があったという! それで、どうにか逃げ出して江戸に戻ってきたら新たな怨霊の噂を耳にした! なんとこの店の近所では、菅原道真公の祟りがあって雷に打たれた者が出たらしい! 私はすかさず、道真公捕獲大作戦を立てた! そう、この虫籠に筆を入れたのが天神捕獲器だよ! 道真公は筆に目がないからね! そして道真公を呼ぶべく、天神を招く童歌も口ずさんでね! 道真公は日本の怨霊の中でも最上位に厄介だから捕まえて鎮めたとなると名誉も凄まじいぞ! なに? どこが厄介なのかって顔をしているね。フフフ道真公が怨霊になった際に日の本中の坊主がかの怨霊を鎮め、或いは成仏させようと挑んだ。だが道真公はこう言い放った。『我の天罰は帝釈天様、四天王様から許しを得ている』と! つまり仏教の二大守護神が帝釈天と、その部下であり地上監視の任を得ている四天王が許可しているのだから、そこらの坊主がお経を読んで凄んだところで効かないということだね! おっと! 最近の小癪な幽霊否定論者は『仏教では幽霊など認めていないから除霊はしない』などとしたり顔で言う者もいるが大きな勘違いだねそれは! 罪人や供養されなかった者は悪霊になり、薜茘多と呼ばれる存在になるとされる! そして薜茘多は仏教四天王の増長天が自らの配下だと認めている! 幽霊否定派仏教徒は四天王、ひいては帝釈天や梵天すら否定するということだね! 仏教式除霊ではお経を聞かせて無常を悟らせ現世への未練を断ち切らせるか、不動明王や四天王の名を借りて叱り飛ばして貰うかなのだがそれ故に帝釈天の配下である道真公には『いやおたくらの上司からちゃんと許可貰ってますんで』と言われて効かないのだね! 話は逸れたが道真公は政治的判断として神道式に、天神に祀って怒りを収めて貰おうとしたのだがそれでも時折暴れて祟りを出しているという──結論から言うと江戸は滅亡する!」
彼女が大声、かつ早口でペラペラと語りだしていると、店に残っていた最後の客はそっと関わらないようにして代金を払って出ていった。
九子はお房の方を向いて、尋ねる。
「いつもこんなのかえ?」
「いつもこんなのなの」
そういう女であるらしかった。鳥山石燕という女は。




