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11話『天狗と孤独の美食』


 さて、風呂も終わって九子らは店に戻った。六科も鴉が行水をしてきたように、サッと手短に銭湯に行って戻ってきたようだ。


 マグロの大きな切り身を冷凍したまま保管庫に入れて、今日使う分をまな板に出す。


「さて、漬けにしてみるかのう。刺し身もいいが、既に世間のマグロ評判が悪いから好かれんだろうし、一仕事した方が食いやすいかもしれん」


 それに幾らなるべく新鮮のまま凍らせて運んできたとはいえ、現代日本と比べて魚市場に来た時点での鮮度もかなり違う。刺し身で食べさせるには不安もあった。

 九子はとりあえず柵切りにしてあるマグロの切り身を取り出す。刺し身にすれば八人分は取れそうな大きな塊である。これがサービス価格込十二文(二百四十円)ほどで手に入った。


「漬けは簡単だから六科、見ておれよ」

「うむ」

「まず塊を湯に放り込む」


 鍋に沸かした湯の中にマグロの柵をそのまま入れた。身の表面がじわっと白く変色する。


「変色したら取り出す」

「うむ」

「六科の事だからとりあえず崩壊するまで煮込むかもしれんので釘を刺しておくが、入れて二十数えたら取り出すのだぞ」

「二十ぅむ」

「にじゅうむ!?」 


 六科の返事を疑問に思いつつも柵を取り出す。表面はツナ缶のツナみたいな色になっているが、こうしておくことで食感の変化が味わえるし、あまり濃くタレが染み込むのを防ぐ。

 とはいえ江戸では濃い味の方が好まれるので完全に浸けきってもいいかもしれないが。


「こいつを水で冷やす。中まで熱が通ってしまうからのう」


 水瓶から汲んだ水と切り身を中に入れて冷やした。


「そして漬けタレは……六科には面倒なことは言わん。蕎麦用に作ったつゆでいい」


 味噌たまりに酒を加えて煮込んだつゆを別の鍋にたっぷり入れる。鍋の予備も昨日買ってきていた。漬けは醤油の殺菌作用でマグロを保存するものだが、味噌も発酵菌によって雑菌の繁殖を抑え、大豆タンパク質が臭いを吸収することで消臭の効果もある。


「そして冷やした切り身を漬け込んでおき、注文が来たら刺し身にするわけだが……」

「お腹すいたのー」

「……まあ、浸かっておらぬが鉄火丼にして食うか。沢山あるからのう」


 お房の視線があったので、表面を湯霜にしたマグロの切り身としてひとまず朝食に食べることにした。

 六科にマグロを切らせて、残った身はまた浸けておく。

 丼に飯を盛り付け、その上にタレをまぶした切り身を並べ、上に摩り下ろした生姜を乗せて七味唐辛子を振りかけた。

 生姜と唐辛子は薬味として使えるために昨日大量に購入しておいたものだ。基本的にこの店で出される蕎麦もおかずも、味は大したことはないのでこうして薬味で誤魔化すのが重要である。

 マグロ鉄火丼、生姜乗せのでき上がりである。原価はおおよそ一人前で十文も掛かっていない。それでも大盛りでマグロもたっぷりだ。


「どれ、美味いかのう──って房子や、凄い掻き込み方だぞ。喉に詰まらんようにな」

「美味しいの!」

「六科はタレを飯に掛けすぎではないか……? 底の方ビタビタになっておるぞ……?」

「うむ」

「ええっと……どういう食べ方を……」

「お雪さんには丼飯は食いにくいのう。ちょっと待て。混ぜ飯にしてから食うといい」


 ひょいとお雪の前に置かれていた丼を取り上げると、乗っていた刺し身を細かいぶつ切りにしてちらし寿司のように混ぜてやった。「美味しいですよう」と彼女も喜んで食べる。

 シンプルな調理法のものだからそう不味くなりようはない。九子もむしゃむしゃと食べると、マグロに浸けタレの味は染み込んでいないものの、もちもちとした新鮮な食感が楽しめて普通に美味い。


「中々だのう。何刻か漬け込むと更に美味くなるはずだ」

「嘘でしょ……今でさえご飯を幾らでも食べられる美味しさなの。マグロって美味しいの」

「うちは特別だからのう」


 なにせ普通の江戸マグロは、魚市場から客のところまで運ぶ間にどんどん傷んでいく。切って調理する間にも生ぬるい温度で崩壊していく。そうでない九子の妖術がイレギュラーなのだ。


「ねえ、これなんて名前の料理なの?」

「ふむ……『鉄火丼』……というのだが、聞いたことあるかえ?」

「てっか? 鉄の華なの?」

「いや、鉄と火だ。ほれ、マグロの赤身が焼けた鉄のようで……」


 そう説明しながら九子は若い頃溶けた鉄を扱う工場でアルバイトしていたときを思い出して、改めてマグロの赤みを見た。


「……いや似ておらんな。もっと鉄が焼けたら光るしのう。誰だこれに鉄火なんて名付けたのは」

「いいんじゃないの? 九子みたいな喧嘩が強くて、男勝りな女のこと『鉄火肌』って言うの。九子が作ったから鉄火丼で」

「……己れ、そんなヤクザの姐さんみたいに見られておったのか?」

「普通の女の人はスリの腕をへし折ったりしないの」


 お房の指摘に六科は思い出しながら言う。


「死んだお六は容赦なく絡んできたチンピラを殴り倒していたが」

「倒した相手の財布まで奪うことで有名でしたよう」


 お雪もそう言うので、あまり思い出の無い死んだ母親はどういう女だったのかとお房は首を振った。


「お母さん……実家はいいとこのはずなのに……」


 なにはともあれ、名称は鉄火丼で決定したようだ。

 マグロの漬けのことを鉄火と呼ぶようになったのも、そもそも漬けが作られるようになった江戸後期からであるので九子が先取りした形になる。

 しかしながら九子もそんな名称の細かい発生時期など知らないし、どうせそのうち勝手に生み出される料理であるので「まあいいか」と気にしないことにしたのであった。


「ねえ九子、これお店で出さないの?」

「ん……まあ、確かにマグロは余っておるし、それ以外特別な材料を使うわけでもない。マグロがあるうちは出してもいいかもしれんのう」


 なにせ漬けを切って飯の上に乗せるだけだ。値段は二十文ほどで利益が出るはずである。


「……それはそうとメニュー告知はせんといかんな。とりあえず応急的に……房子、飯を食ったら紙と筆を持ってきておくれ」


 とりあえず四人は飯を食べ終えることにした。今日の味噌汁は葱のみを入れた熱々の根深汁で、それもなかなかの味だ。

 以前までまったく出汁を取っていなかったこの店の味噌汁だったが、昨日九子が鰹節を買ってきたことで味が向上した。

 原価も多少上がるが荒節を使っているから許容範囲である。荒節はカツオの内臓・骨を取ってから煮込み、干して乾燥させたもので、これに黴を付けたものが枯節、更に熟成させて本枯節となるのだがそれらに比べて手間と時間が掛からない分安い。

 食事を終えたら店の準備である。お雪が蕎麦を打って、九子は六科が先程の手順を守って漬けを作れるか監督していた。店で出すならもうひとつぐらい漬けを仕込んでおくべきだ。

 その間に茶碗を片付けたお房が紙と筆、硯を持ってきて準備をした。


「なにを書くの?」

「どういった食い物を売っておるのか、書いて店の外に貼り出すのだ。値段も一緒にのう。昨日見て回ったが案外やっておるところは少ないようでな」


 初見の客を店に入りやすくさせる作戦だった。この店は既に六科の不味い蕎麦で悪評が立っていて、あまり近所の客は期待できないので通りすがりを狙う。

 現代日本でもメニューと値段が店の外からでも分かる店のほうが心理的に入りやすく、個人経営の飲食店などにテコ入れされる手法である。

 九子が筆を取って、割りと質の良い半紙にゆっくり押し付ける。


(そういえば筆を取ったのは、いつぶりだろうかのう)


 何十年と異世界に居てそこでは使う機会も無かった。現代日本でも、学生の頃やった程度だ。九子は慣れていない様子で、ゆっくりと文字を書いた。


『嬌妻』


 書き損じた。『蕎麦』という漢字を書こうとしたのだが思い出せなかったのだ。


「なんかエロい漢字になった気がする」

「間違っているの!」


 いかがわしい店の案内のようなので、九子は『蕎麦』の漢字を思い出すことを諦め、素直に『そば 十六文』『定食 三十五文』などと書く。


「うーん、でもなんか、定食とか鉄火丼とか、あたしは九子から説明されて知っているけどわかりにくそうなの」

「それは確かにのう」


 どちらもまだ無い言葉だ。それに定食というが、おかずも味噌汁も別段定まっているわけでなくその日安い魚や季節によって内容を変えた方がいい。


「ならば『定食』でなく『一汁一菜』の方がわかりやすいかえ?」

「そうなの」

「ではそうして……ルビも振っておくか。漢字読めん者もいるだろうから」


『かけそば 十六文』

『さけ  二十文』

『さかな 十文』

『一汁一菜  三十五文』

『鉄火丼  二十文』


 と、九子は品書きを作った。


「こんなものか。鉄火丼はどうするかのう。わかりにくいのだが、『マグロ丼』では一般人はマグロが不味いと思っておるから逆効果になるかもしれんのう」


 張り紙の横に説明の能書きでも書いてみるか、とも思うが果たして通りかかった客がわざわざ読むかは怪しい。


「わからなくても食べれば美味しいのは間違いないから、そのうち広まるの」

「それもそうか」


 いい商品は宣伝をせずとも広まる……という初心な考えを九子はしているわけではないのだが、そもそも評判の悪いマグロを使っているのだ。名前で騙してでも食べて貰わねば始まらない。


「そうだ、いいことを思い付いたの」

「なんだ?」

「貸して」


 と、九子から筆を取ると、品書きの紙も寄せた。

 そして品名と値段が書かれている適当な隙間に絵を描き始めたのだ。

 蕎麦は丼から麺を箸で手繰っている絵。

 酒は『酒』と書かれた徳利の絵。

 さかなは皿に盛られた焼き魚。

 一汁一菜は細かい。お膳を描いてその上に飯、味噌汁、漬物、魚を描いた。

 鉄火丼も、山盛りの丼飯に刺し身が載っている様子を筆だけで見事に表現している。

 子供が描くにしては異様に上手く、特徴を捉えてわかりやすく視界に訴えてくる絵である。誰が見てもひと目でどういう料理かわかるだろう。下書きもなく筆で一発描きしたのだから大したものだ。


「おお、上手だのう! これは驚きだ。房子や、絵を習っておるのか?」

「うん! 従姉妹のお姉ちゃんのところで習ったの。お姉ちゃんは絵師だから。あたし、才能あるって言われたの」

「ほう」

「でも最近もっと教えてって頼むと『それだけ才能あるならもう教えなくても勝手に上達するのではないかね』とか言って拗ねてお酒飲むの」

「駄目な姉だのう……」


 呆れるが、ともかく絵の上手なお房のお陰で品書きが完成した。


「品書きよし、食器の準備よし、料理の下ごしらえよし。店内のレイアウトは……そのうち考えるとしてとりあえず店を開くとするか」

「頑張るの!」

「まあ、評判が広がってからだのう。気合を入れねばならんほど忙しくなるのは」


 九子は苦笑しつつお房と共に品書きを外に張り出すのであった。



 ******



 その日。外廻りの町奉行所同心、水谷(みずたに)端右衛門(はなえもん)は江戸のあまり知らぬ町内を歩いていた。

 ここは同僚である菅山利悟の担当地域だったのだが、本人が雷に打たれたので暫く交代となったのだ。

 端右衛門はやや大柄でがっしりとした体格をしていて、大きめの鼻と憂いているような目つきが妙な迫力を出す物静かな男であった。実年齢よりも十は上に見られることが多い。


(腹が減ったな。完全に昼飯迷子だぞ。こんなことなら二八蕎麦でも食べておくんだった)


 端右衛門はそんなことを考えながら歩いていた。殆ど来たことがない町なもので、飯屋の位置もわからなければ屋台のタイミングもずれてしまった結果、腹を空かせながら一人歩いている最中である。

 腹が減っているのに食べるべき物が見当たらない、というのを彼は昼飯迷子と心の中で名付けていた。


(こうなればなんでも、と思うとあたりに店が見当たらない……)


 二八蕎麦とて、材料は有限であり品切れになって屋台を下げるため見つからなかった。

 鶉餅で腹を膨らませるのも気分じゃない。もう担当範囲から外れて飯屋を探そうか……端右衛門がそう悩んでいると、少し先の店から出てくる男を見て「おや」と小さく呟いた。

 非番の町方同心、歌川(うたがわ)夢乃信(ゆめのしん)という男だ。着流し姿の楽な格好で、颯爽と店から去っていく顔はどことなく満足そうであった。

 まるで役者のような仰々しい名前だと揶揄されることもある男だが、彼が密かに江戸の美食情報を瓦版に寄稿していることは端右衛門もたまたま知った。

 彼が紹介した飯屋に外れはない、とされている。端右衛門も何件か行ってみたが、確かに美味い店が多かった。

 彼に声をかけようか、と一瞬思ったものの首を振って自制する。食事時は職場の同僚などに煩わされずにいたいのは自分でも思うことだ。


 それにしても、と彼が入っていた店に近づく。店の外には真新しい品書きが貼られている。

 端右衛門は酒を飲まないが、なるほど蕎麦はいい。それに一汁一菜も悪くない。だが、鉄火丼とはなんのことだろうか。丼飯になにか乗っているような図がある。

 安定して腹を膨らませるならば蕎麦。

 しかし、鉄火丼、鉄火丼と口の中で読みを繰り返すうちに気になって仕方なくなってきた。

 店に入って誰か他の客が頼んでいるのを見て確認できないものかと思った。

 意を決した端右衛門は緑の暖簾をくぐる。


「いらっしゃっせー」


 どことなくやる気のなさそうな声がして、眠そうな眼差しをした女中役の九子が「お座敷どぞー」と呼びかける。

 座敷に上がりながら周囲を見回す。客は他に三人いたが、蕎麦、酒と刺し身、一汁一菜を食べていて鉄火丼らしいものは見当たらない。

 座敷に座るとお房が湯呑に水を入れて持ってきた。


「なににしますの?」

「えーと……あの、鉄火丼ってやつを」

「はいなの!」


 子供に知らないことを聞くのも憚られたのでそのまま頼む。仕方がない、不味ければ諦めようと端右衛門は考えた。

 とりあえず水で喉を潤す。外を歩いていたので冷たい水がありがたい──


(いや……美味いぞ、この水。なんだ? ああ、凄く美味い。真夏に一日中道場で稽古をしてぶっ倒れそうになった後に飲む水ぐらい美味い!)


 ぎょっとして思わず湯呑を見る端右衛門。九子の術によって生み出された水は、江戸の井戸を流れる苔むした水道水とも、江戸の土地で掘って出てくるやや塩っけの混じった井戸水とも水の美味さの格が違う。人の踏み入らないほど山奥の澄んだ湧き水のようだ。

 おまけに湯呑が汗を掻いて濡れているぐらい冷えている。居候する前、水売りとしての稼ぎ分得をすると豪語していたが、確かに売れるほど美味いものだった。

 江戸の高い水売りなどは水に砂糖を微量混ぜることで甘い水として売っていて、端右衛門も飲んだことがあるのだが眼の前の水に比べればいかにも野暮ったい味だった。飲んだだけで口の中から胃の腑まで爽やかに洗い流されて、腹が更に減ってくるようだった。

 端右衛門が静かに驚いていると、彼の前へ盆に乗せた丼飯が出された。

 盛られた白飯の上には、一度熱して漬けにしたやや色の濃いマグロの切り身が並んでいる。頂点に擦った生姜が乗せられ、葱と七味が振られていた。


(これが鉄火丼か……乗っているのはマグロか? マグロは傷みやすいんだよな……っと、それより)


「すみません、水のお代わりをください」

「はいなの!」


 妙に子供相手にも下手に出るお侍さんなの、とお房は思いつつ水を汲んでくる。あまり武士らしくない丁寧さは端右衛門の性根であった。彼は幾度も盗賊や暴漢を直接捕まえて手柄を立てている町方でも実力派の腕利きなのだが、物静かで礼儀正しい。


「ほれほれお主、徳利が空ではないか。お代わりはどうかのう。つまみの注文は?」

「お代わりマロ! しまった! 乳に目が眩んでまたお代わりをしちゃったマロ……」


 なにやらもう一人の店員……九子が酒の客を煽って追加注文させているのをやや迷惑そうに視線を送った。


(食事のときは静かであるべきなんだ。一人で、話しかけられず、孤独に……)


 そう願いながらも、改めて鉄火丼に向かう。

 漬けになっているマグロはタレが染み込んで、ひょっとして悪くなっているのでは?と疑わしい見た目だ。端右衛門は糸を引いたりしていないか、箸で少し確かめてから飯と一緒に口に入れた。


(……! 濃厚なマグロの肉肉しい味が、噛みしめる度に旨味と甘味が滲み出て、生臭さを生姜が打ち消している……! かかっているタレだけでも飯が進みそうなのに、このマグロの味を白飯が引き立てる!)


 飲み込むように丼飯が超特急で胃袋に消えていく。端右衛門の勢いある食べっぷりに、思わず九子も振り向いて、お房もぽかんと見守っていた。

 ハッと彼が我に返ると、殆どの丼飯を食べてしまっていた。恐る恐る、お房が湯呑をお盆に置く。


「あの。鉄火丼お代わりで」

「お、お代わりなの!」


 そう注文してから端右衛門は自分でもどうかと思った。勢いよく食べすぎて、あっという間に同じ料理を追加注文してしまうとは。


(なにをやっているんだ俺は……馬鹿の二丼(にどんぶり)か?)


 食事時は静寂を好む彼は下手に目立つのも本意ではないのだが、つい二杯目を頼んでしまった。それだけ腹が減っていたのだろう。水を飲んで胃を落ち着かせる。やはり水が美味い。口の中を清涼に洗い流してくれる。酒は苦手なのでこの水をいつでも飲みたいとさえ思った。

 二杯目の鉄火丼が到着し、今度こそ味わって食べる。

 マグロの赤身がすぐにも血になり肉になるような、中々普通の魚料理では味わえない野趣ある食べごたえだ。生姜による発汗作用も加わって、端右衛門は汗を拭いながら美味そうに鉄火丼を頬張る。


(この血湧き肉躍る感覚はまさに鉄火場だ! ……賭場(てっかば)に行ったことは無いが!)


 謎の思考が浮かんできて、やはりあっという間に二杯目も平らげてしまうのであった。


「ふう……かけそばもください」

「蕎麦も追加なのー!」


 締めに蕎麦も頼んだ。蕎麦はまあ、大きく褒めるところのない程度の旨さであったが優しい味が箸休めによく、温かい汁物をいれることで胃がどっしりと重たくなって、満腹感が十分になった。

 合計金額、五十六文。幾ら最下級の武士であってもこの程度の値段で困るわけはない。むしろ腹いっぱいに食べられてこの値段ならばありがたい話だ。


(まさか困民救済のお助け人ではあるまいが……)


 と、店の外に出てから一旦振り向く。その値段設定も、ちゃんと店側に儲けが出るようにしているのだから問題はない。客単価だと酒を飲んでいた客の方が高かっただろう。


(うーぷ、それにしても食った……腹が膨れて眠くなってきた……)


彼はそう思いながら、見廻りだというのにさほど注意も払っていない様子で歩いていく。


(交代でこのあたりに来たが、いい店があってよかった。また来よう)


 そう考えながら。端右衛門は当然のように今後、店の常連になっていくのであった。ただし注文以外ほぼ無言で、コミュニケーションも取らない静かな客だったが。


本格的に九子のテコ入れが始まった今日の売上はおよそ八百文。目標の八割ということで、初日にしては中々だと満足するのであった。


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― 新着の感想 ―
私は江戸なのであるのこういった食事シーンが好みです。
クーポンおろしそば(新そば詐欺…ではないが詐欺寄り)が鉄火丼になった。同心のお方も満足そうで俺も嬉しいぜ…じっさい、まともな商売で客も店もwin-winな。
 普通に食べれる料理のはずなのに左高例さんの手にかかるとすごくおいしそうです。端右衛門の食べ歩きも楽しみです。
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