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君に捧げる―欠ける月  作者: ShlrPhys
Ethica, ordine geometrico demonstrata

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19/25

19話 コナトゥスのための挽歌―5

「私、何をされたのかしら?」

「何って告白だよ」


 僕が綾音のあのキスを、作戦として利用しているんだ。だって、そうでもしないと君はこの世に未練がないんだろう?

 なら僕はどんなズルだってしてしまおうじゃないか。どんなに薄っぺらくてもただ、麗華はピアノだけじゃないって、それを理解してもらうまで。

 

「分かっているわ。でもそのことがよく分からないのよ」

「分からないって、僕の気持ちが伝わらなかったかな?」

「そんなことじゃないわ。現実だって思えないのよ」

「どうして?」


 僕はこれまでの麗華を思い返してみると彼女の純情さが真っ先に思い浮かぶ。だから僕は自己嫌悪に陥ってしまいそうになるんだけど、それは今どうだっていい。


「どうしてって、私は芳のことが以前から、いやずっと前から好きだったわ。でもそれは友達としての好きだって思っていたの」

「その言い方だと変わったってことなの?」

「恥ずかしいけどそうよ。最近になって、いや一井さんやあの子と芳がいる時にはどうしてか複雑な気持ちがしていたのよ。いつかの時に気付いていたわ、でもそれは私だけの、あなたに理解されないものだって思っていたのに」

「僕は麗華のことが気になっているんだ。他の人たちと違ってだから……」

「ええ、いいわ。私だってあなたのことがずっと前から好きだったの。それが実現するなんて、とんだ奇跡ね」


 麗華の言葉は僕にはなんの響きも、嬉しさもない。だって僕の嘘に対してだから。本当は誰かに好きといってもらえる喜びは何にも代え難い。それは小雪から教えてもらったものだ。あの日から僕は小雪に助けられている。そして今、僕はその小雪の行動を酷い、残酷な方法で再現しているんだ。

 

 ――気付いていたさ。

 さくらのことを階段で聞いてきたあの時から。

 この人は僕にどんな感情を抱いているかなんて、鈍い僕でもよく分かっていることだったんだ。それでも僕は自分可愛さのため、さくらのために。

 ああ、それだって嘘だ。結局は許してくれる人がいるから、僕は際限なく自己嫌悪に至れたんだ。


「奇跡でもなんでもないよ。ただ僕がそうだっただけだよ」

「いいえ、それは十分に奇跡なのよ。気持ちというものはどうすれば伝わるかなんて考えたことはないかしら?」

「僕は言葉だと……言葉だけじゃない、行動だってそうなんだろうね」

「ええ、そこらを歩いている動物を観察すれば意思疎通がないなんて嘘。だけど、それは言語なのかしらね。それは気持ちなのかしら?」

「例えば敵が来たって知らせる鳥の声だって立派な意思疎通、気持ちなんじゃないのかな?」

「私はそれが意思疎通だとは思わないわ。心と心を通じ合わせることが大前提だと考えてしまうのよ。心は、言語は反実仮想がなければ気持ちを表現することは不可能だわ」

「僕にはよくわからないよ。……悪い意味とかじゃないよ、そういうところが麗華らしいね。幼い頃の君はどうだったかなんて忘れてちゃって、でもこうして再会して言葉を交わしてようやく麗華の心を理解し始めたんだ」


 ピッタリとくっついたままの腕から熱が伝わってくる。半袖だからこそ彼女の柔らかい、そして何処かに大切に仕舞われていた花が陽の光を浴びて発するような匂いが僕の鼻孔をくすぐった。

 彼女のそばにいると僕は自分を誤魔化すのと同時に、英雄にもなっている気持ちになってしまう。もちろんそんなことはないし、ただの妄想。だけど、醜いやり方をしているからこそ過去の僕は今救われていっているのだ。それで本当の醜さを誤魔化し、酔っているんだ。


「ねえ、これだけは聞かせて。どうして私だったの? そうね、あの子や一井さんじゃない理由ってあるのかしら」

「そんなことを言われたって僕にもこの気持ちがよくわかっていないんだし、説明できないよ」


 それ以上、僕を考えさせないでくれ。誰が好きかなんて考える前にこのことをしなくちゃならないって、そう考えて、だから他のことは無視して君を連れ出しに来たんだ。僕と同じようにあの無限に回転する観覧車に乗っていた君を見捨てる訳にはいかないから。これは僕のやりたいことだし、それが悪い結果になったって僕の決めたことだから。


「さあ、芳! 美しき世界はこれからなのよ!」


 席を立つ麗華。靡く長い黒髪とワイシャツ、そして白を夕陽に染める後ろ姿に気を引かれる。

 はずだったのに……椅子から立ち上がる瞬間の手のぎこちなさに気が付いてしまった。だからその左右に揺れる髪でも、色彩でもなく、棒のように動かない後ろ手に組まれた様子に注意が向いてしまう。

 どうして過去に視線は向いていないのに、後ろに引っ張られるような感覚がするんだろう。こんなにも僕は足を進めているのに。


 *


 ガラス越しに蝉の声が教室の中に響く。どうやら今年は早い時期から鳴きたいらしい。僕からしてみれば、彼らの声を聞くと億劫な気持ちになってしまうからまだ聞きたくはないんだけどと一人、心の内で考えてしまう。

 麗華はきちんと授業を受けているだろうか? ピアノから離れた彼女はあの部屋にまだ足を踏み入れていないらしい。

 そろそろこの退屈な授業も終わり、快適な休み時間に差し掛かろうとする。けれど、僕の気持ちは一切晴れやかな気分にはならない。

 そうさ、何故ならクラスメイトたちが何があったのかを、僕が罪人であるかのように問い詰めてくるから。岡崎もクラスメイト同様、僕に詰め寄ってくる始末。何より心をすり減らすのが小雪のことだ。

 僕と麗華が付き合って数日が経ってもまだ会話が出来ないでいる。チャットアプリで連絡をしてみても既読マークだけが付くだけだ。廊下で急に会っても逃げるように去ってしまう。そろそろ僕の心が持たなくなってきた。何か一言でも会話して欲しい。


「暗い顔してるわよ、どうしたの?」

「ああ、麗華か。どうしたもこうしたもさ、話題になりすぎじゃないかな?」

「そうかしらね? 別にもっと多くの人に見られることが普通だったし、気にならないわ」

「図太い精神してるね。真似っこできないよ」

「結局は慣れよ、ただ経験すればどうでもよくなるわ。最近あの子の様子はどうなの?」

「あの子って誰だ? 一井のことか?」

「違うわよ結野のことよ」


 僕の代わりに彼女が岡崎の質問に答える。すると前にも聞いたはずなのに「あの? 本当に間違いはないんだよな?」と確認をずっとしていた。麗華も面倒くさそうに相手をしていたが、とうとう納得したのか岡崎は深い溜め息を吐く。


「どうしてお前はそんな有名人ばっかりに会えるんだよ」

「綾音ってかなりの有名人なの?」

「バカッ! あったりまえだろ! こいつだってここにいるのがお前の為だなんだって酔狂なことぬかしてんのに、お前ときたらなんだ! あの結野まで知り合いときた!」

「知り合いというか、捨てられた子犬だったというか。まあ、そんな感じだったね」

「それが異常なんだよ。どうしてお前はそうツイてるんだか。まったく羨ましいかぎりだよ」


 僕と岡崎のやり取りを楽しそうに眺めていた麗華だったけど、その彼女の視線は何処かを見ていた。僕には分からない景色を眺めていた。その視線の先は廊下を通した窓のその先、中庭を超えたガラスの先。彼女が見ているのはその辺りだろうか。

 横顔は硬く、なんて声をかければいいか戸惑ってしまう。けれど、それには気付かず岡崎は話を続ける。彼女もようやく見るのをやめて僕たちの会話に参加した。

 通知が一つ届いた。ポケットの中の携帯が僕にお知らせだ。さくらからのメッセージなのかと期待して見れば画面に映っていた人物は小雪からだ。

 ――放課後いい? と簡潔なメッセージ。それに対して僕も短く返事を。


 *


「ごめんね、初々しいところを呼び出しちゃって」


 他の学生と出会わないくらい学校から離れた、閑静な住宅街。そこでロマンチックとはほど遠い場所で君は待っていた。


「そんなことないよ。僕だって小雪に会いたかったから」

「嬉しいな。でももうわたしを名前で呼んじゃだめ。それは神無月さんに言ってあげて欲しいな」


 ぴたりと横に付く小雪は身を少し前に屈め僕を上目遣いで見てくる。そんな幼い頃から知っている彼女の癖に思わず頬が緩んでしまいそうになるけど、どうにも雰囲気がそうさせない。


「ねえ、羽野くん。神無月さんってどういう人なの? 話したことはもちろんあるんだけど、羽野くんの口から聞きたいな」

「……麗華は運命の人だよ。僕の初恋ってね、実はあのお屋敷のお姫様だったんだよ。ピアノが上手で不思議な空気を持っているあの一人でいるお姫様」

「そうだったんだ。じゃあ、わたしも話していいかな?」


 話すって何を? 聞こうとしたけど、それよりも先に本能が気付いてしまう。だから僕は彼女の口を手で抑えてしまった。


むごっ(ちょっと)!」

「それ以上は言わないで」


 とても滑稽に見えるだろう。だって僕たちの間に流れているリズムは整っているのに、テンポだけが調子を狂わしているのだから。きっとそういうピアノを弾いている人はお調子者か道化くらいのもの。知っている、これは僕の足取りが鳴らす即興劇(エチュード)なのだ。


「ごめん」

「いいよ、気にしてない。だけどさ、わたしも一つワガママしていいかな? わたしはいつまでも芳の側にいるから、安心して。でもね、わたしもこの気持ちをぶつけていいかな?」


 彼女の言葉の真意は読み取れない。けれど彼女が僕の脳裏に、その柔らかいレコードの音を響かせている。褪せた記憶なのにノスタルジックさが徐々に増していく。聞き慣れたあのボロボロになった音。だけどそれだけで僕には十分だった。


「どうしてそんなに分かっちゃうのかな?」

「そんなの決まっているよ。でも今は教えてあげない」

「そっか」

「羽野くんがどうするか、それだけだよ。」


 小雪は僕を僕以上に詳しく知っているんじゃないかって思ってしまう。あの言動は僕のする行動を予測してしまっているんだ。なんで分かっちゃうのかな。罪悪感が凄いじゃないか。


「ねえ、今日は本を買いに行きたいな。いいよね」

「うん。行こうか」


 影がじっくりとその長さを道に焼き付ける。二つの影は混じり溶け合う。影は離れず長く伸ばしていく。

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