18話 コナトゥスのための挽歌―4
時刻は午後5時。麗華の検査も終わった頃だろう。僕は彼女に連絡をしてみることにした。数分経った後に「明日、学校に行くからあの部屋に来て」と連絡が来た。
今日会うことは難しそうだ。焦る必要はない、そうだろ?
「ねえ羽野くん。大丈夫なんだよね神無月さん」
同じベンチに座る僕が携帯をいきなり操作し始めたから小雪が気になってしまったらしい。そもそも今日はずっと麗華のことを話していなかったからなおさら気になるだろう。
「明日に教えてくれるらしいよ」
「そっか。倒れたから心配したけど、もう動けるんだね」
「そうなんだけど……実は麗華、手が痺れているって」
「へ!? それってどういう状況なの?」
「昨日の演奏以前からあったらしいんだ。だけど、目が醒めてからは感覚がしないらしいんだよ」
「それって本当に大丈夫なんだよね? 体調が悪くてってそれだけなんだよね」
僕と同じ疑問を口にする小雪は心配そうな目で僕を見つめる。だから不安にさせないように明るい声色で話す。
「簡単な検査だけじゃ分からないって。だから今日、精密検査をしているんだ」
「そっか、そうだよね。ちょっと分からないだけだもんね。ならきっと神無月さん大丈夫だよ」
「うん。僕もそう思うよ」
やっぱり小雪は頼りになる、こういう時の突き抜けた明るさは僕が好きな彼女の部分。そんなことは照れくさくて本人には言わないけど。
それから日が変わって月曜日になった今日からはもう授業が始まる。だから放課後にこの部屋を訪れることにしたんだけど、この廊下の空気がどうにも悪い、それもそのはずで雨が一日中降っているから。鉄錆の臭いが鼻を突くのだ。取っ手に手をかける時だって錆が取れるような嫌な感触がする。
「来たよ」
「待っていたわ」
部屋に入ると麗華はピアノの前にある天面が革張りになっている椅子に座っていた。
ピアノを背にして僕を見つめている。とても落ち着いた表情をしているから検査の結果が読み取れない。
「さ、芳。隣に座って」
「いや、他の椅子があるでしょ」
「だめよ。ほらここ空いているから。それとも何? 無理だっていうのかしら」
「そういうわけじゃないって。なんだかちょっとね」
「はっきりしない物言いね。恥ずかしいのかしら?」
「まあ、そういうことだよ」
彼女は楽しそうにしている。ほら、何も不安なことはないじゃないか。だったら僕もこの即興劇に付き合おう。
「どうなったか知りたいかしら?」
「そりゃ気になるさ」
「だったら言ってもいいのだけど、取りあえず手を握ってみてくれないかしら」
言われたとおりに僕は彼女の手を握り、感覚を味わう。至って普通の女の子の手の感触だ。線が細くて柔らかく、少しひんやりしていて熱を奪われそうになる。そんな感覚がする。
「どう? 何かおかしな所はあるかしら」
「そんなこと言われても、特に変なところはないけど。それがどうかしたの?」
「いいえ、少し気になってね。そうね、やっぱり、演奏は厳しいわね」
「厳しいって。それが結果なの?」
「ええ、結果としては原因不明。だけど、症状は和らぐとは言っていたわ」
「だったら心配ないってことなんだよね?」
「ふふ、そう思うわよね。でもね、芳。それがいつかなんて分からないの。明日にでもこの痺れは治るかもしれない。それと同じくらいの確率でずっとこのままなのかもしれないの」
「え?」
「つまりね、私、とんでもない爆弾を抱えているってことなの。現にこうして握られているのも、かろうじて分かる程度よ。この状態がよくなっても満足に弾けるとは思わないわ。前の演奏だって満足して弾けていないのだから。まあ、あれはあれで頑張ったのだけどね」
「それでも演奏はしていくんだよね?」
そこが一番気になる部分。これを真っ先に聞かなくては意味がない。
「そうね、どうしようかしら。もちろんそうしたいんだけど、もう諦めているのよ」
「何も諦める必要はないじゃないか」
「そう言われちゃ、そうだとしか言えないわよ。でもよく考えてみて、以前のようには弾けないのよ? もし弾こうとしてもずっと過去の弾けたままの私を引きずる。そんなの目に見えていること、なのにどうして続ける必要があるのかしら」
「確かにそうかもしれない。だけどそんな短期的なことじゃなくってさ、もっと長期的に考えてみてもいいんじゃない? 別にきっぱりと辞めるなんて言わなくともいいじゃないか」
「ふふ、私にはねそれ以外の価値がないのよ。そんなことない、そう言いたいと思うわ。だけどね、私の人生ってこの後ろにあるピアノと一緒だったの。それ以上の記憶がどこにもないのよ」
「記憶がないからって価値までは失わないよ。ピアノが弾けなくたって麗華は麗華。それだけのことさ」
二人でいるには大き過ぎる防音の構造をもつこの部屋。ピアノの奏でる音はなく、ただ差し込む夕日が宙を舞っている埃を輝かせる。
「私はね文字通りピアノ以外のことを捨ててきた。そんな私がピアノを弾けなくなってしまったらどうなってしまうの? 答えは簡単よ。いらないのよ。社会に適合することなく育てられた私。確かにピアノをする人にとっては羨ましいかもしれない。だけど、そういう人たちって他のことを両立して生きているのよ。私にはそれが全くなかった」
「そうは言っても、麗華……勉強が出来るって聞いた事があるけど?」
「そうね、人並みに出来るわ。だってそれはピアノに必要だったから。でもそれが社会に求められている勉強とは違うのよ。私は自分のために必要だったものだけを学んできた。それがたまたまこの学校のテストに合致しただけ、それだけなのよ」
「それだって十分に凄いじゃないか。それだって出来ない人たちは沢山いるんだし。出来る人の謙遜に僕は思っちゃうよ」
「でも私にとってはそういう人たちは眼中にないのよ。だって私の論理空間を広げる存在でもないわけだし。まあこういう見方は限界をなくす行為なのだけれど」
彼女は時折、論理空間という語を用いる。僕だってよく分かっていない概念だけどその内容はある程度理解している……気がする。論理空間というものは自分の知っていること全部、そしてその可能性を含んだ総体。つまり猫が羽を生やして空を飛ぶだって可能性としてはある。そういうありえないことも含んだ可能性全体のこと。だけど重要なことは僕の、自分の知ることでしか含まれない点だ。
そんな概念を取り出す麗華は一体どこを射程にして物事を捉えているのだろうか。
「私はピアノを弾かない、弾けない。それは私の信念のようなものなの。ずっとずっと、これまでしてきたピアノから手を引いて何が残るのか分からない。だけど、そうしなくては私は露頭に迷ってしまうのよ。それがどれだけツラいことか、分かって欲しいわ芳」
「それでも僕はピアノは捨てないで欲しいな。嫌いになったとかならいいんだけど、後悔があるなら絶対に続けて欲しい。続けなくても関わり合っていて欲しいよ」
「そんなのは苦しいのよ。私には弾くことが価値なのだから、それ以外では何の輝きを発せなく、見いだせなくなってしまう。割り切ることなんて難しいのよ」
「その気持ちは僕だって痛いくらいによく分かるよ。僕だって過去に、きっと今もずっと、これから先も、引きずられる。それは仕方のないことだと、そう思ってしまう。だけど、前に進んでいたとしても過去へと視線を向けてはいけないって、僕は思うんだよ」
「それが出来る人は生まれ持ってから他の物を持っている人だけなのよ。何も持たない人は持っていた物に必死に縋り付く。それ以外の物に価値を見いだせないから。でも持っている人は言うわ、ほら世界はこんなにも美しいってね。よくそんなことが言えるわね……」
「その気持ち、よく分かるよ」
さくらのことだって、僕のことだって普通に人生を歩んでいる人から見れば割り切れることに過ぎないのだろう。だけど、僕たちにとってはそれは僕らを構成する世界に等しい。それを割り切れと言うのは簡単なことじゃない、というかそもそも不可能なのだ。それが出来る人はすり替えが出来る人間。過去に対して忘却を重ねることが出来る人たちだから今を生きられる。それは全くもって正しいことのように感じる。けど、僕らにはそんなのは幻想でしかない。
「一度考えたことがあるわ。私はこの世界に何を残せたのだろう、と。今になってその答えが出たのよ、その答えは至って単純なもの。何もないのよ。でもそれが哀しいことなんじゃないの。誰だってこの世に残せるものなんて存在しないのよ」
「でも過去は刻まれていっていると僕は思うよ。今の僕たちはその人達が残した贈り物で生きているから」
「そうね、でもそれは他人であるからよ。その人達になって考えてみなさい。そうすると世界に残せた人たちは何人いるのかしら」
「なんだか観測出来ないからって問題だね」
「結局はそうなのよ。私たちが残せたと呼べる時はいつなのか、それは無限の時間の中でなら綺麗になくなってしまう。だったら区切られた時間の、人生の中。誰が自信を持って残せたなんて言えるのかしらね」
「それで麗華は誰も何も残せないって答えにたどりついたわけ?」
「そう。だから未練がないの」
握っている手に力が込もる。話していて徐々にその臭いを強めていったそれが輪郭を今もってしまった。僕だけにしか分からないもの。それが勘違いであって欲しいと願ってしまうくらいに彼女から発する。身体の芯から熱が奪われていく。ゆっくりと時間をかけて、でも確実に。
「麗華。君はこれからどうするつもりなの?」
「……どうって、一切分からないわ。ただ一つの未来が少し鮮明になっているくらいよ」
彼女は隠す気はないらしい。そうと分かってしまえば僕のすることなんて一つしかない。でもそれをこなすには僕は彼女程賢くはない。何を言っても論駁されてしまうだろう。だったら、僕にも分からない方法を使うしかない。それだったら僕の論理を隠し通せるに違いない。そしてそれが成功する確信だってある。引け目は感じる。なら僕は行う資格は十分にあるはずだ。
握っている手から放さない程度に力を少し抜く。いつかされたように相手に悟らせないで確実に行う。一瞬の迷いを見せたらそれは嘘になってしまう。唇に感じる熱を思い出す。あの時のように、でもあの時とは違う。なぜなら僕が行うから。
「どうしたの芳?」
相手は僕の様子を確認していなかったらしい。上手く成功する予感が確信になる。
僕の顔を見つめている。
もうこれ以上のお膳立てはいらない。
ほら、こうして僕の熱が君に移ったから。
一瞬の時間なのに永遠のように永かった。だけどそれも君の思考の速度ならあっという間に今に戻る。
僕はよく分からないけど、とにかく君の顔は熱に浮かされている。
ここでもう一言。そうすれば完全に成功するはず。
「僕と付き合ってくれない?」




