17話 コナトゥスのための挽歌―3
麗華が倒れてから数時間が経った。ようやく目を醒ましたかと思えばすぐに検査。どうやら命に別状はないらしい。だけど、別の検査があると連絡が来た。取り合えずは安心できたけど、それにしても別の検査って一体何なのだろうか。
「どうですか」
「いやさっきのだけだよ」
「そうですか」
少し不満そうな表情で麗華の心配をする綾音。小雪はクラスのことで僕のように上手くは動けないというか、クラスメイトたちにかなりの貸しがあるとかでそっちの方へ行ってしまった。
「今日のところは会えないんですかね」
「もう遅いし無理なんじゃないかな。でもそれほど心配はいらないと思うよ」
「だといいんですけどね。何かあったらすぐに連絡して下さいね」
「わかったよ」
「絶対ですよ」と言い綾音も病院の待合室から去っていく。遅いとは言ったものの、あといくらか時間はある。その間に麗華から「来い」とメッセージがくるかもしれない。やっぱり倒れたから一度は意識を取り戻した姿を見ておきたいのだ。所詮は僕のワガママに過ぎないけど。
携帯が震える。通知を確認してみるとちょうど麗華から。要件も僕の予想通りの内容だった。でも一つ気になるのが一人で来て欲しいと書いてあったことだ。他の人がいれば何か都合が悪いんだろうか。あれやこれやと考えてみるも結局何も思い浮かばず、彼女のいる部屋まで辿り着く。
いざ会うとなると少し緊張してしまう。何かよくないことが起こってしまうんじゃないかと不安が募る。杞憂に終わればいいんだけど、倒れたとなれば考えずにはいられない。
ドアを開けるのを少し躊躇ってしまうけど、気がつけば開けていた。
「来たのね」
「体調は何ともないの?」
「ええ、何ともないわ」
ベッドに居る君は倒れる前の姿と全然変わっていない。だから安心してしまう。それとも外の明るさで見間違えているのだろうか。
「別の検査をしていたとか言っていたけど、何の検査をしていたの?」
「……そうね。今、私の腕の感覚がないの」
「え?」
「実は演奏をする前からこの手は痺れていたの。痺れると言ってもちょっと動かしづらいだけ。ただそれだけ……と楽観的に考えたかったわ。私にはね子供の頃から時々痺れることがあったの。それも深夜に目が醒めて、寝て起きたら治っている、そんな夢みたいなもの」
「それがどうしたって言うのさ」
「ある朝、目が醒めても痺れたままだったの。治るかと期待したけど、今日までずっと痺れていた。でも頑張ったら演奏に支障が出ないように出来たわ。まあ、長時間すればボロが出ちゃうんだけどね」
「だからちょっとしかしないって、そういうことだったのか」
少し前に綾音が密度は上がったけど、あまり時間をかけなくなったと言っていたのを思い出す。
「あの子ね。全く余計なことをしてくれるじゃないの」
「その痺れって大丈夫なの?」
「まだ、分からないわ。さっきの検査じゃよく分からなかったらしくて明日もう一度行うらしいわ」
「それは本当に大丈夫なんだよね?」
「……答えられないわ。あの夢での痺れ、今日という日までの布石だったのようにすら感じるわ」
「そんなの偶然だよ。そうとしか言えないよ」
僕も、麗華も何処か心の内で必然だったように感じてしまっている。天才芸術家などの運命が定められているかのように、そんなありもしない偶然が起こるべくして起きているなんて空想を思ってしまう。
だって幼少の頃からあったなんて、そう思わせるのに十分な経験じゃないか。
それに寝て起きてもずっと残り続けているのが僕の思考を裏付けている。
「どうなるのかしらね」
「まだ分からないよ」
「ピアノを弾けない私……想像もしたくないわね」
「確定したわけじゃないよ」
「人は未来を想う時ってなんでもかんでも上手く運ぶって考えているのよ」
「過剰な心配だって人はするさ」
「ねえ、芳。どうして教えてくれなかったって怒らないの?」
「そんなこと出来ないよ」
「今、こうして現に倒れたわけよ。なのに手の痺れを隠していたって問題だとは思わない?」
「だからって言えないよ、仕方がないことじゃないか」
彼女の言うことはもっともだ、だけど僕にその資格があるというのか? 自分のことを棚に上げて人に文句を言うことなんて出来る訳ないじゃないか。
「冷たいのね」
「ごめん」
「いいわ、私もちょっと不安定なの。今日のところはもう帰ってくれないかしら」
「分かった」とだけ言い、僕は部屋から去る。茜色はすっかり藍色に変化して夜の花たちが煌々と輝き始めていた。空を見上げると月が少しだけ欠けていた。昨日から欠けていたのか、今日から欠けていたのか、それとも今から満ちるのか分からない。
ただ、それでも空気は澄んでその光がよく目に焼き付いたことだけは確かだ。
常夜灯が白を地面に落とす。その溢れた部分が押し黙っている小川を照らす。輝きは掴みどころがなくその相貌を変えていく。
時間の概念というものは初めと終わりがなければ成立しないそうだ。例えば砂時計。これは砂が上から下に落ちる動作が時間を表している。だったら初めがないものは終わりがない、つまりはそれは永遠なんじゃないだろうか。
そう、例えば月。その満ち欠けはいつが終わりでいつが初めなんだろうか。天体という観点から見れば星の死。そうなのだろう、だけどそれは満ち欠けとは全くの別問題。
月の満ち欠けは僕たちにしか許されていない景色なのだ。よく聞く話に、虹の色は国によって種類が異なるそうだ。例えば二種類と言う国があったり、四種類と言う国があったりと。その景色を――相貌を持っている人にしか見えない景色があるわけだ。
彼女の景色とは僕たちに共有できるものなのだろうか。そんなものは形而上学だろう。
空の下、僕はゆっくりと世界を見上げていた。
「さくら」
家に帰ってきてしばらくすると一件の通知が届いた。チャットアプリの送り主は小雪でも麗華でもなく、僕の妹。
あの灯篭流しの日以来、僕は返事を送れずにいた。あの時に返信をすればよかったのか、あるいは日を跨いで送るのか、とうとう分からなくなってしまったのだ。それは日を重ねるごとにいっそう迷ってしまって、取り返しがつかなかった。だからこうして連絡をしてくれるのはありがたい。情けない兄でごめんよ。
「おにーちゃん。なんで連絡してくれないの?」と書かれていた。続いて「前みたいに連絡してちょうだいよ。不安になっちゃう」
時間はもう21時。こうしてお昼のような、以前の雰囲気があるメッセージを送ってくるってことは、前よりも進歩したってことだ。そうだ、思ってみれば単純なことだった。妹は克服しているからこうして連絡をしているだけであって、別に不安定にはなっていない。そうと気づくと僕は今の妹に連絡する心持ちが整った。
「元気してた? 写真ありがとう。僕もあの場所にいたよ」と返信する。ずっと待っていたのか、すぐに既読のマークが付き返事がくる。
「そうだったんだ。ありがとう」と簡単なメッセージ。これだけでも嬉しくなってしまう。だからもう一歩だけ進んでみよう。いや、確認をするだけだ。そんな大それたことじゃない。
「夜に連絡しても大丈夫なの?」すると「まだ怖いよ。でもおにーちゃんだから出来るの」とまたもすぐに返事が来る。もう一歩。
「外に出たのはあの日だけ?」
「そう、あの日だけだよ。お昼でも怖いけど、あの灯篭流しは元気が貰えたから、不思議と出来たんだよ。おかーさんは気絶しそうになってたけどね」
たまにお昼にする軽い調子を持った会話。これが夜でも出来るなんて気を抜いてしまえば涙ぐんでしまいそうになるが堪える。
「久しぶりに会いたいな」
僕の想像していたさくらは思った以上に進んでいた。僕はまだあの、さくらが帰ってきた日から全然進んでいないのに。もう通り越されていたんだ。嬉しく思うと同時に自分の不甲斐なさに笑ってしまいそうになる。
情けない姿は見せたくない。だから僕も返事をする。
「いいよ」




