13話 君と僕の小夜曲―4
キリギリスの歌う声が辺りから響いてくる、この小道を共に登っていた。赤みがかった葉や木は紅葉を思わせるのに十分なほどだ。
「どうしてここに?」
「私が好きな場所です。だからですよ」
「子供の頃はこの公園でよく遊んだよ」
「そうだったんですね。私はあんまり遊んだりはしなかったので」
彼女の時折見せる暗い部分。べつに悪意がある訳ではないことは知っている。だけど、彼女を取り巻く環境からは明るい気持ちが感じ取れない。
「芳先輩は家族ってなんだと思います?」
「……家族か。僕は血とかじゃないと思うな。そう思えば誰だって家族なのかも」
「ふふ、そうですね。確かに家族って血じゃないですもんね」
「面白かったかな?」
「ええ、それはもう。とっても面白いですよ。だって私、家族は存在しないって思ってますから」
「存在しない?」
「存在しませんね。家族なんてものは本人が思わなければ居ないんですよ。まあ戸籍上は居ますけどね」
クスクスと笑いながら語る様子に少しついていけない。確かに家族にネガティブな感情を持ったことなんて山ほどある、だけど彼女みたいに居ないなんて言うほどでもないから。
僕たちの視線の先は頂上のポツンと建っている休憩所が見える。足早にそこへ向かっていく綾音。僕も負けじと早足になる。
「さ、先輩座りましょう」と促されるまま僕たちは中に設けられているベンチに腰掛けた。子供の頃は大きな木のハンモックのように感じていたそれも身体が大きくなったからか随分小さく感じられる。
「私の話の前に先輩の妹さんの話を聞かせてくださいよ」
「妹か……」
躊躇いはそう簡単に捨てられない。妹はあの日から少し歩み始めたんだ。だったら僕だって進まなくちゃならない。今の僕の背中を押すのは妹への気持ち、ただそれだけ。
「明るい性格だったんだよ。人当たりもよくて相手のことを理解するのに一生懸命な、とっても出来のいい妹」
「妹さんは芳先輩よりも社交的だったんですね」
「そうだね。妹、さくらはとても社交的だったんだ。僕はまあ見ての通りあんまり社交的じゃないんだけど、よく妹に連れられて色んな人と交流があったよ」
「すごくいい妹さんじゃないですか」
「ああ、僕の自慢の妹だよ。後、綾音と同い年ね」
「そうだったんですか! 一度会ってみたいですね」
会いたい。その言葉を聞くと胸が締め付けられて呼吸が浅くなってしまう。僕だって会えていないのにいや僕は会ってはいけないのだ。
「どうしましたか?」と急に黙りこくってしまった僕を覗き見てくる。そんな優しい顔で見ないで欲しい。僕は君のことを妹と重ねて見ているから――。
だからなのか自分の罪を白日の下に晒してしまう衝動に駆られてしまう。そんなことをしても何の意味もない、それだけじゃなく君を傷つける行為なのに。
「イジメにあったんだ」
口にしてしまえばなんてことのない言葉。でも僕から見える相貌は恐ろしく口にするのも嫌な悪魔の言葉なんだ。
だってそれを言ってしまえば後は無責任になる。僕に罪がないなんて甘い言葉をかけてくるから、そんなことは許されないのに。
「イジメですか」
太陽が傾き休憩所に影が落ちる。僕たちはその影に表情を隠した。これは僕自身の告白なのだ。
「そう。それも……」
思い出そうとするとあの時の感情が激しく蘇る。むしゃくしゃする思いとやるせなさと、憎む気持ちと申し訳なさと。頭の中でグルグルとあの時がリプレイしている。
「大丈夫ですか?」
顔色が悪いのか隣の綾音が心配そうにうつむく僕を覗き見てくる。大丈夫。僕はどうだっていいんだ。そんなことよりも妹なんだよ。
「夜遅くに帰ってきたさくらの制服はボロボロだった」
「へ?」
「冬なのにシャツとスカートだけであちこちに穴が開いて、その、破られた所は少し赤くなっていて」
「どうしたんですか? 待って下さいよ。落ち着いて下さい」
淡々と語っているはずなのに彼女から見える僕はそんなに落ち着いた方がいいのか。それでも先を、もう話し始めてしまったから。
「家には警察の人が来て、日が落ちるまでいつ帰ってくるのか分からないさくらを、僕は探して。それから日が落ちて、辺りが真っ暗になって、玄関先で待ってたんだ」
「……」
「酷く寒いなとカチカチと歯を鳴らして、ガクガクと震える脚に意識を向けていると、暗闇の中から一人、ゆっくりとした足取りで向かって来たんだ。制服を着ていて、でも穴が開いていて、変な人だなんて思って。玄関先のライトが照らした時にようやく気が付いた。そう、さくらだよ。帰ってきたさくらは僕の姿を見ると、一歩下がって。走ったんだ。もちろん僕は追いかけた。防寒着も着ていない、おかしな様子をしたさくらを。体力がなかったのか案外すぐに腕を掴めたんだよ。そしたらなんて言ったと思う?」
「分からないです。分かりたくないです」
「そうだよね。でも聞いてほしいんだ。僕のわがままなんだよ。……さくらは僕を見てこう叫んだ
――やめて! もうしないで!
その時さくらから臭う異臭に気付いたんだよ」
その日は雪が降っていた。僕らの街では珍しい雪がしんしんとさらさらと。街を黒く覆っていく、たださんさんと白く淡く。結晶が見えてしまいそうなくらい澄んでいた。
綿雪は足跡を残していくように。静かに。そっと。
隣に座る綾音は口元を押さえてえずくのを必死に我慢している。彼女にも似たような経験があるか分からないけどとにかく涙ぐんだまま静かに聞いていた。
「もうやめて! 痛いの! それ以上しないで。って僕の存在が塗り替えられたように目に入らなくなったんだ。そうしてたら警察の人が気付いたのか僕に駆け寄って来たんだ……それ以上のことはもう思い出したくない」
上半身を折って耐えている。そんな背中に僕はあの時できなかった手をおいてさすった。数分くらいだろうか、綾音は落ち着いたのか瞳に涙を含んだまま僕に言う。
「どうして。そんなことに、なったんですか?」
「イジメなんて説明いらないよ。ただ僕の妹のさくらに起きてしまっただけなんだよ。それ以上も以下もないよ」
「そんなのあんまりじゃないですか……」
「あんまりだったら許して貰えたのかな? だったらさくらはあんな目に遭わなかったのかな」
つい責めたような口調で喋ってしまう。何度となく繰り返された僕を責める質問だったから、不甲斐ない自分に怒りが湧いてしまうから。
「妹さんは、今はどうなってるんです?」
「母親とゆっくり暮らしてるよ」
「あっ……だから一人で……」
今まで説明していなかった僕の一人暮らし。綾音が朝食を作り出した時に一度聞かれたけど、はぐらかしてしまった。それが今繋がったんだろう。
「でもちょっと前に進めたんだ」
「それって?」
「この前の灯篭流し。その日にさくらから写真が来たんだ。一枚だけだけどね、あの川の光景を土手から収めた写真がね」
「……」
零れていた。俯いたままで僕の隣から輝いた水晶が。
「よかったです」
震える声が鼓膜に届く。
「うん」
僕は気付いていたけど、今だけは気付かないフリをしていた。だってさくらが立ち向かっていくことは地獄だろうから。ずっと引きずったままで、いつか前みたいな元気なさくらになったとしても不意に人生を顧みてしまうとそこにドス黒い塊があるんだから。
――それは辛いことなんじゃないだろうか。
立ち向かうことが普通に向かうことじゃないって頭では分かっている。でも、この先一度でもそう思わない保証なんてどこにもないじゃないか!
それでもやっぱり、何よりも僕自身が許せない。どんな理屈であってもさくらを見過ごしていたから。
「ごめんね。こんな話して」
「いいですよ、気にしてません。前よりもはっきりしただけです」
「はっきりって何が?」
「それはないしょです」
「ありゃ」
遠くで鴉がガアガアと鳴いている。沈んでいく太陽と暖色を含んだ雲はこの世界の出来事には思えない。自然はいつだって美しい。どんな感情でも置いてけぼりにしてしまう。気が付くと手が重ねられていた。
「私も聞いて欲しいです。いいですか?」
「うん、聞かせて欲しい」
一度、深く呼吸をして彼方を見据えていた。
「私は物心がついた頃から家の習い事をしていました。料理や生け花に裁縫、マナーに帝王学なんかも、そして最後にピアノです。色々な習い事をしてるなかでピアノが一番上手だったんです。そして先生もこの子なら世界が取れるかもしれないって。多分両親へのおだてもあったと思います。ただやっぱり私には才能があったんですよ」
重ねられた手にぎゅっと力が入る。
「その日から私にとって地獄のような日々が始まりました。知ってます? ベートーヴェンって虐待のような環境で音楽をしていたらしいですよ。私の両親も、先生もそれをよしとしていたんです。そんな環境にこそ才能が宿るとか言って。私の演奏を親戚に見せびらかして、そしてミスをしてしまったら大笑い。母親は私の態度が気に入らなかったのか後で鞭を振るうんです。あれって凄く痛いんですよ。先端の方の速度はとんでもないことになるんです。今でもその時の傷が少し残ってますよ」
握られた手は汗が染みていた。肌に張り付く服の感覚は最悪だったし、何よりも最悪なのはさくらに重ねてしまっていると分かってしまう僕の経験なんだ。
「そんな私を見かねたのかお手伝いさんの一人が私に色々なことをしてくれたんです。だから料理だってできるようになったし、まあ知識ばっかりだったんですが。とにかく私はその人に助けられたんです」
「そっか。でもそれだけじゃないよね」
「ええ」と頷いて綾音は続ける。
「時々あるんですよ、私がコンクールで失敗をすると家に入れてもらえなくなるんです。まるで昔の厳しい家庭みたいですよね。まるでゴミみたいに外に放り出されるんです。ポイっと簡単に。いい家だからなんだって出来ちゃうんですよ、まったく凄いですよね。まあそんな家にいる私になんて誰も友達は出来ませんでした」
「だから嬉しいんですよ」と付け加えて視線を送る綾音。するとふっと顔を上げて天井を見つめる。
「この場所って凄いんですよ。だーれも来ないから一晩過ごせるんですよ」
「え?」
耳を疑ってしまう。初めて会った時から、そして家に入れてもらえない時から薄々は気付いていたけど、言葉にされてはっきりとしてしまう恐ろしさを。
「別にお金は貰っていました。まあお手伝いさんからなんですけどね。でも急に家に入れないと隠していたお金を取り出せないんですよ。そういう時はここに来るんです。芳先輩に初めて会った時だってここを目指していたんですよ?」
「……」
「夜って危ないんですよ、街を歩いていたら知らない人に3万でいいとか聞かれるんです。その時潰れてしまいそうだったので、壊れてしまえって思って提案に乗りそうになったこともあります。でも、そういう人たちって断ると無理やり手を引いてどこかに連れて行こうとするんです」
「だから。さくらの時に」
「何の運命なんでしょうね。私はどうしてかピアノが好きなんですよ。確かに今だって苦しい生活ですが、あの家のお陰でピアノが出来るんです。そしてまだ続けたいとも思っているんですよ。一度たりとてあの人に勝ってないんですけどね」
「そっか」
もう陽は隠れていた。藍色の空とほんのり残る茜のグラデーションにようやく一息つけた。握られていた手もいつの間にか離れている。キリギリスの声もしない。
「綾音は今は幸せなの?」
「……」
どうして隣に座る君の動向がつかめなかったんだろう。きっと影のせいじゃない。だって手が離れた瞬間に君の横顔を僕は見ていたから。視線の先、その瞳に映された世界を僕は見ていた。
「ん。……芳先輩。好きです」
一瞬で分からなかったけど、口唇に熱はずっと残っていた。




