第四章
記憶の中から現実へと意識を戻し、ゆっくりと目線を手元に落とす。
その手の中には、埃をかぶった小さな段ボール箱と、その中から取り出した一冊のノートがあった。
A4サイズのシンプルなノートで、少し色あせた表紙には太く柔らかな文字で「日記」と書かれている。
これは、美亜が毎日欠かさず書いていた、数ある日記のうちの一冊だった。
彼女は何冊もの日記を用途ごとに分けて持っており、家族や友人について記したもの、日常の些細な気づきを綴ったものなど多岐にわたった。
だが、このノートだけは特別だった。
俺が手に取ろうとすると、彼女は必ず身体ごと隠すようにして、それを見ることを全力で拒んだ。
「これは秘密!」と、少し頬を赤らめながら笑った美亜の顔が脳裏に浮かぶ。
ただ一度だけ、彼女はこう言った。
「君との時間を忘れないための宝なの」
俺がこの日記を真っ先に手に取ったのは、どうしても確かめたいことがあったからだ。
それは、自分の名前。
不思議なことに、俺はこれまで自分の名前を意識したことがなかった。
周囲の人間が俺の名を呼ぶ場面も思い出せず、書類や身分証を見た覚えすらない。
だが、きっとこの日記の中には、俺にとっての手がかりが記されている——そう信じた。
息を整え、俺は慎重に日記の表紙を開いた。
一ページ目、最初に目に飛び込んできたのは「2019年5月6日」の日付だった。
その下には、あの懐かしい、元気な文字でこう綴られていた。
"帰り道、店でコーヒーを買おうとしたら売り切れてて落ち込んでいたら、近くにいた男の人が二本持っていた内の一つを譲ってくれた。しかもお金まで払ってくれて、申し訳なかったけどとてもうれしかった。そのあと一緒にコーヒーを飲んでたら話がとっても合って楽しくて、つい連絡先を交換しちゃった!"
文字のひとつひとつが生きているようで、ページの向こうにあの日の情景が浮かび上がる。
店の軒下、雨に濡れたアスファルトの匂い、缶コーヒーの温もり。
美亜の笑顔、俺の心が跳ねるような感覚……そのすべてが、記憶の靄の中から蘇ってくる。
"きっと彼との出会いは世界が気まぐれで私に優しくしてくれたんだと思う! だから、今日からこうして日記を書くことにした。歳を取って色々なことを忘れちゃっても、思い出せるように。私だけの、彼についての日記。きっと宝物になる"
「世界が気まぐれで……か」
あの駅のホームで出会った少女の言葉が蘇る。
似たようなことを言っていた。
世界に意思があるかのような言い回しを、不思議に思いながらも、どこか心の奥で納得している自分がいた。
俺はページの最後まで指先でなぞるようにして読んでいく。
そして、そのページの最下段に記された一文に、思わず息を呑んだ。
"忘れないでね、彼の名前は 相原尚哉"
そこだけは他の元気な文字と違い、丁寧な楷書体で記されていた。
俺は何度もその名前を心の中で繰り返す。
相原尚哉。
何度も、何度も。
だけど、いくら繰り返しても、その名前が自分のものだったという確信には至らない。
それでも、懐かしさが胸を満たす。
名前の響きが、まるで肌に馴染んだ布のように、しっくりとくる。
きっとこれが、自分の名前なのだ。
そう思えた。
そっと日記を閉じ、俺は深く息をつく。
箱の中にノートを戻し、蓋を閉じた。
「また、きっと読みに来るよ。いや、これ以上読んだら君に怒られちゃうかな?」
その言葉とともに、物置の扉も閉ざす。
だが、心の奥で何かが確かに動き出していた。
家の外に出ると、もうすでに日は沈み、街は闇に包まれていた。
薄曇りの空からは、いつの間にか静かな雨が降りはじめており、街灯の明かりに照らされた水滴が静かに落ちてくる。
湿った空気が肺に入り、まとわりつくような暑さに不快感を覚えた。
それでも俺は、小さく笑った。「好都合だ」と。
部屋に戻り、汗で張りついたスーツを脱ぎ、Tシャツとジーンズへと着替える。
玄関で傘を手に取り、再び雨の中へと歩み出した。
駅へと向かう道すがら、舗装された道に映る街灯の光と足音が心地よいリズムを刻む。
ホームに到着すると、電車の発車を知らせる電子音とアナウンスが響いていた。
構内はまばらな乗客で静まり返っており、俺は屋根の下に腰を下ろして電車を待った。
やがて遠くからヘッドライトの明かりが見え、風を切る音がだんだんと近づいてくる。
電車がホームへと滑り込み、扉が開く音と同時に涼やかな風が車内から流れ込んできた。
俺は一歩踏み出し、乗り込んだ車両には数人の乗客がぽつりぽつりと座っており、大半は目を閉じていた。
静けさに包まれた車内、俺はゆっくりと歩いて空いている席に腰を下ろす。
座面のやわらかさに身体を預けると、今日の出来事が一気に押し寄せてきた。
まぶたを閉じれば、すぐに眠りに落ちてしまいそうな疲労感。
だが、頭の中では美亜の笑顔や声、そしてともに過ごした時間が、優しく繰り返されていた。
——あの日々が、確かにあったんだ。
その想いが、胸の奥をあたためてくれる。
心のどこかがふっと軽くなるのを感じながら、俺は車内の静けさに身をゆだねた。
体感一分ほど経った頃、車内アナウンスが静かに響いた。
目的地に到着したことを告げる音声に目を開け、俺は姿勢を正す。
ゆっくりと席を立ち、扉の前で停車を待つ。
車両が静かに揺れを止めると同時に、扉が開き、冷えた夜の空気が流れ込んできた。
暗い駅の構内は、誰の気配もない。
雨は弱まるどころか、ますます勢いを増していた。
濡れたアスファルトが街灯の光を受けて鈍く光り、足音がやけに大きく響く。
俺は迷いなく、あのベンチへと向かう。
その場所に特別な意味があるわけではない。
ただ、あの日、少女と出会ったのがそこだったというだけだ。
だが今の俺には、それが十分な理由だった。
時間が過ぎていく。
列車が何本も到着し、そして去っていく。
だが少女の姿は現れなかった。
最後の乗客が去った後、構内には俺だけが残っていた。
静寂に包まれた空間。
まるで世界が眠りに落ちたかのような、完全な静けさ。
「……流石にもう家に帰ったのか、それとも……」
言葉を呟いたその時だった。
「やぁ、また会えたね。それとも、会いに来てくれたの?」
不意に背後から響いた声。
その声音には、あの日と変わらない優しさと、どこか現実離れした不思議さがあった。
「たまには人の背後からじゃなくて、前から現れたりはしないのか?」
俺が振り返ると、そこにはあの少女が、あの日とまったく同じ姿で立っていた。
両手に缶コーヒーを持ち、やわらかく微笑んでいる。
「ふむ……考えておくよ!」
差し出された缶コーヒーを受け取りながら、俺は彼女の顔をじっと見つめた。
ふたを開ける前に、ふと思い出したことがあり、缶の側面を指でなぞる。
デザインはどこにでもあるものだが、どこか記憶に引っかかるような違和感があった。
「やっぱりな……あの時は気づかなかったが、その後から変だと思ってたんだ」
口の中で呟いたその言葉の続きを発しようと、少女へと視線を戻した——その瞬間だった。
目の前の光景が、一変する。
ホームの薄暗い照明、雨音、濡れたコンクリートの匂い——それらすべてが音もなく消え失せ、代わりに、明るい陽光が降り注ぐ山中の風景が広がっていた。
「どういうことだ……?」
俺の足元には草原が広がり、遠くには美亜と旅した街が見える。
「夢か?」
手を地面につけると、草の温かみと太陽の熱が確かに伝わってくる。
現実味を伴いながらも、どこか現実ではないと感じさせる空気。
「懐かしいって感じてる? それとも、思い出して心が痛い?」
見上げると、木の上に少女が座っていた。
いつの間にそこに居たのか。
「答えは……前者だ」
そう答えた瞬間、視界にノイズのような歪みが走り、俺の身体はふわりと浮いたようにバランスを失った。
気がつけば、元のホームのベンチに腰掛けていた。
少女の姿はない。
だが、隣にはコーヒーの缶が、静かに置かれていた。
冷たいはずの缶の飲み口からは、微かに湯気が立っていた。
俺は缶をそっと手に取り、雨の匂いが残る空気を吸い込んだ。
そして静かに笑った——たしかに、世界は気まぐれだ。