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第三章

大雨の日だった。

事務所の窓を打つ雨音が、耳障りに響き続ける。

ザーッという絶え間ない音は、神経をじわじわと侵食してくるようで、分厚い雲に覆われた空は昼だというのに薄暗く、世界を灰色に染めていた。

俺の仕事は建物内でパソコンを操作するだけなので、外の天気が作業に直接影響することはない。

けれど、気分はどこか沈んでいた。心の奥が、じっとり濡れているような感覚だった。


そんな中、それはあまりにも突然に起こった。


いつも通り、無機質なディスプレイに向かっていた俺のもとに、血相を変えた上司が駆け寄ってきた。荒い息を吐きながら「早く、来てくれ!」と叫び、俺の腕を強く引っ張った。

何が起きたのかも分からないまま、俺は引きずられるように事務所の電話の前に立たされた。


「出てくれ!」とだけ言われ、訳も分からず受話器を取る。


「……もしもし」


挨拶の言葉の後、電話の向こうから聞こえてきたのは、切羽詰まった声だった。

相手も明らかに混乱していた。

俺は本能的に「落ち着いてください」と促したものの、相手は落ち着きのない声のまま言葉を発した。

その言葉は──


「浜田美亜様が……交通事故に遭われました」


その瞬間、世界の輪郭がぐにゃりと歪んだ気がした。

誰かが別の言語を話しているような感覚。

電話の声が遠くなる。

手が震え、呼吸が浅くなる。

思考が霧のようにぼやけていき、受話器が手から滑り落ち、台にぶつかった「ガシャン」という音だけが、やけに鮮明に耳に残った。

現実を否定する自分と、受け入れなければならないと訴えるもう一人の自分が、頭の中で激しくぶつかり合う。

その間をゆらゆらと漂う意識は、やがて真っ暗な深淵へと沈んでいった。

その後は覚えていないが、上司が電話口で病院の情報を聞き出し、電車通勤の俺を車で連れて行ってくれていたらしい。

車内でのことはほとんど覚えていない。

ただ、まるで魂の抜けた人形のように、視線も言葉も失っていた自分の姿だけが、ぼんやりと思い出される。

病院に到着した瞬間、俺は上司に何の言葉も返さず、車のドアを荒々しく開けて走り出した。

受付で「浜田美亜の病室はどこですか」と早口でまくしたて、番号を聞いたらまた一言もなく駆け出す。

階段を上り、病室の扉を両手で開け放ち──


「美亜!」


叫んだ声が、自分でも驚くほど掠れていた。


目に飛び込んできたのは、白いシーツの上に横たわる彼女の姿。

顔には無数の傷、身体には何本もの管が繋がれ、心電図の機械だけが静かにリズムを刻んでいた。

その傍らには、彼女の両親。泣き崩れながらも、彼女の手をしっかりと握っていた。

その光景を見た瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちた。


「ああ、間に合わなかったな」──と、心が呟いた。


彼女の母が、静かに俺の手を取って言う。


「……手を、握ってあげてください」


握られていた手がそっと離され、代わりに俺の手が、冷えかけた彼女の手に重ねられる。

触れた瞬間、涙が溢れた。

もう止めようがなかった。


「うわぁ……ぁぁぁぁ……!」


叫びにも、嗚咽にも、呻きにもならない、ただの悲鳴。

張り裂けそうな感情が、声となって病室を満たす。

朝、出勤前に軽く握ったときは温かかったはずの手が、今は冷たく、それが”少しだけ間に合わなかった”という事実をより強く突き付けてくる。

どれくらい泣き続けたのか分からない。声は枯れ、視界は涙で歪み、顔は濡れた布のようにぐしゃぐしゃになった頃、医師が病室に入ってきた。

その顔には疲労と哀しみが刻まれている。

こいつが救えなかった……! そんな理不尽な怒りを浮かべた瞳で睨むと、彼はひどく暗い顔をして視線を逸らせた。


医師は無言で資料を持ち、彼女の両親のもとへと歩き、静かに座った。

俺はそこで我に返り、深く一礼して病室を出た。

これから、彼女の両親たちと医者の話がある。

そこに俺がいてはいけないと思ったからだ。

扉を閉める直前、もう一度彼女の姿を見た。

その姿は、音もなく、記憶の奥底に焼き付いた。


家に戻った俺は、靴を脱ぐのももどかしく、暗い廊下をそのまま寝室へ向かった。

電気はつけなかった。いや、つけられなかった。光があれば、そこに“日常”が見えてしまう気がして──その“日常”にはもう、彼女がいないという現実が、より鮮明に浮かび上がってしまいそうで。


薄暗い部屋の中、俺はベッドに身を投げた。

仰向けに倒れ込んだ体は動かず、天井をただじっと見つめる。そこに何かあるわけでもない。

ただ、何も考えず、何も見たくなかった。


視界の端に、壁にかけてある一枚の写真が映った。

海辺で撮った、彼女とのツーショット。満面の笑みを浮かべる彼女と、そんな彼女に引っ張られるようにして笑っていた俺。

その写真を見た瞬間、心臓がきゅっと締め付けられ、反射的に目を逸らした。


見たくなかった。認めたくなかった。思い出したくなかった。

今はとにかく──彼女の“存在”そのものに触れたくなかった。


「……なんで、なんでだよ……」


小さく、ひとりごとのように声が漏れた。

途端に、帰り際に警察から聞いた話が、脳裏に甦る。


事故の原因は、大雨による視界不良とスリップだった。

運転していた男性は、スピードも抑え、慎重に運転していたという。注意を怠ったわけではない。


だからこそ、怒りのやり場がなかった。

誰も悪くない。ただの、偶然。ただの、運。

そんな言葉で片づけられるには、彼女は──美亜は、俺にとってあまりにも大切すぎた。


何を恨めばいい? 雨か? 運命か? この世界か?

それとも、神なんてものが本当にいるなら──俺から彼女を奪った神そのものか?


(彼女の横には、缶コーヒーが二つ入った袋がありました)


ふいに、警察官の言葉が頭を過った。

缶コーヒー──俺たちの毎晩の小さな習慣。

仕事終わりに、コンビニで缶コーヒーを二本買って帰り、並んでソファに座って、何気ない話をしながら飲む。それが、何より幸せな時間だった。


きっと、彼女はそのコーヒーを買った帰りだったのだ。

俺たちの「日課」が、彼女の命を奪った。


「……もし、もしそんな日課がなければ……」


心の中で呟いた瞬間、自分の醜さに気づいた。

思い出を否定してまで、彼女に生きていてほしかった。

どれほど大切な習慣でも、どれほどかけがえのない時間でも、あんな事故に比べたら、どうだってよかった。

彼女が今ここにいてくれるなら──何もかも失っても構わなかったのに。


そして、自分の無力さへの怒りが、次第に全身を包んでいく。

最期の瞬間、俺は間に合わなかった。

彼女が息を引き取る前に、名前を呼び、手を握り、何か言葉を伝えることすらできなかった。


いや、それだけじゃない。

その後だって、俺は最低だった。


彼女を助けようとしてくれた医師に、理不尽な怒りを向けた。

あの表情──彼も苦しんでいたはずだ。医者としての責任を背負いながら、ひとつの命を救えなかった現実に向き合っていた。

それなのに、俺は彼を睨みつけ、八つ当たりをした。


美亜のそばにいた時間も、ほんの一瞬だった。

もっと時間をくれ、と頼むこともできたのに、俺は逃げるように病室を出てきた。

彼女の死を、直視できなかった。


そして今、俺は──思い出に囲まれた部屋の中で、ただ涙を流している。

認めたくない。傷つきたくない。記憶から逃げたいの最低三拍子。

結局、すべては自分のため。

どれだけ自分を守れば気が済むんだ。


「……俺は、なんてクズなんだよ」


その言葉とともに、俺はベッド脇の机を強く叩いた。

衝撃で上に置いていた物が床に落ち、ガチャガチャという音が部屋に響く。


きっと、その中には彼女の私物もあった。

二人の記憶が詰まった品も、壊れたかもしれない。

俺たちの思い出が、今この瞬間、音を立てて崩れていくようだった。


この部屋のどこにいても、きっと彼女を思い出してしまう──そう思った俺は、部屋中の彼女の私物や、写真、思い出の小物たちを箱に詰め始めた。

手は震えていた。

一つ一つが、まだ彼女の匂いを纏っているような気がした。


すべてを詰め終え、物置の奥へと押し込む。

そして扉を閉めようとしたとき──脳裏に、病室の扉を閉める直前の、彼女の姿がよみがえる。


……俺は、あの時も、逃げたんだ。

死に向き合うことが怖くて、逃げた。

今も、彼女の痕跡から逃げている。


「俺って本当に、クソみたいなやつだな……」


呟いた声は、誰にも届かず、暗い部屋の空気に溶けていった。

俺は物置の扉を、静かに──だが確かに、閉めた。



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