第一章
駅のホームに入ってすぐ、電車がガタンゴトンと音を立てて発車した。
そう、終電を逃した。
別に上司に捕まったわけでも、職場から駅までの道中が混んでいたわけでもない。
ただ会社のパソコンを借りて”個人的資料”を作っていたら遅くなった。
”これに乗らなければ、今日の電車はもうないぞ”と心は何度も訴えかけてきたが、なぜか体がそれを否定して、急ぐ気にもなれなかった。
理由は何となく分かったが、それを思い出したくはなかった。
雨の中歩いてきたため、濡れた靴の中で足先がじんわりと冷えていく。
スマホのバッテリーも切れかけてるし、迎えを頼む相手もいない。
こりゃ、どうやらタクシーで帰るしかなさそうだ。
はぁ、とため息一つ吐いてホームの椅子に腰を下ろす。
切れかけで点滅する照明、ボロボロの天井から滴る雨漏れの音、少し先は真っ暗な線路内。
それらしいBGMを入れれば、ホラーゲームのステージと言っても違和感がないほど不気味なホームで一人と考えると、大人になった今でも少しは恐怖心を覚える。
今こうして考え事している間にも、背後から何か嫌なものが迫っていそうだ。
だからこそ、独り言でもいいから何か言葉を発して気を紛らわせようとした。
「歩いて帰れるはずだったんだが――」
「こんな時に限って降るんだよね、雨って」
突如背後から聞こえた声が、俺の言葉の続きを言う。
突然の出来事に、俺は足先から頭まで何か冷たいものが走るのを感じて硬直する。
俺一人のはずのホーム……一番に思い浮かんだのは”幽霊”だったが、恐る恐る背後を向いた。
そこには見知らぬ女の子が缶コーヒーを二本持って、笑顔で立っていた。
中学生くらいだろうか、身長は低めで、白いワンピースを着ている。
雨の日に着る服とは到底思えない。
濡れている様子もなく、傘も差していない。
それなのに、全身がどこか光に包まれているように清潔だった。
白いワンピースは雨粒のひとつも吸っていないように見え、足元には水たまりすら避けているかのような不思議な雰囲気があった。
「はい、どうぞ」
「あ、どうも」
少女が差し出した缶コーヒーを受け取り、半分警戒で言葉を探す。
指先に触れた缶の冷たさが、現実感をわずかに呼び戻した。
そう、とても現実的な疑問へと。
「なんで君みたいな子がこんな時間に……しかもこんな場所に?」
俺が問うと、彼女は隣へと座ってきて、肩をすくめて笑った。
その仕草が妙に大人びていて、子供らしさとはかけ離れているように見えた。
「世界は割と気まぐれだから。私みたいなのが、たまに道端に落ちてることもあるんだよ」
彼女の笑顔はどこか儚くて、まるで妖精のような印象さえ感じた。
その言葉に、果たしてホームは道端と言っていいのだろうか……そんな疑問が頭によぎったが、今はそんなことはどうでもいいだろう。
この奇妙で静かな邂逅に、意味を求めること自体が無粋に思えた。
「親は? 誰か保護者が近くにいるのか?」
「さぁ?」
「どこから来たんだ?」
「さぁ? 気まぐれで優しい世界の一部……どこからきた、なんてないよ」
「名前は?」
「さぁね」
何を聞いても、ずっと曖昧な返事しか返ってこない。
その語り口はまるで童話の登場人物のように現実味がなく、しかし妙な説得力をもって響いた。
「そういうあなたこそ、なんでここに居るの? 電車、行っちゃったよ?」
「知ってる。まぁタクシーで帰るさ」
微笑みの表情は崩さず、逆に少女が質問を返してきた。
その無邪気なまなざしが、俺の心の奥まで見透かしているようで、視線を逸らしたくなった。
「飲まないの?」
「あ。いただきます」
視線は線路内に固定したまま、少女がコーヒーを飲むように促してきた。
開封された跡もないので、別に変なものを入れられている訳でもなさそうだ。
缶は冷たく、指先に心地よい冷気が染み込む。
プルタブを開けると、かすかに湯気が立ちのぼり、缶の中には間違いなくコーヒーの香りが広がっていた
その香りが、胸の奥に眠っていた記憶をゆっくりとかき回していく。
「気分が落ち込んでいるね。それに悲しそう」
「否定はしない……だがあまり触れないでくれ」
そう、雨の日は特に心が沈む。
”喪失”の記憶が蘇ってくるから。
あの日の前日も、俺はこうしてコーヒーを飲んでいた。
もう会えない人と、最後に交わした缶コーヒー。
「雨ってね、世界の気まぐれなんだよ」
「は?」
また口を開いたと思えば、急に意味不明なことを口にした彼女に、思わず声が漏れる。
そんな俺を気にせず、相変わらず視線を線路内に向けたまま、少女は話を続ける。
「世界って、優しい時もあれば意地悪な時もあるでしょ? 雨もその一部。今みたいに迷惑な時もあるけど、必ずしも悪いことばかりじゃないでしょ? 水の恵みを与えてくれるし、晴れれば虹だって見せてくれる」
どこか空想のおとぎ話のようで、俺の心に響くかは怪しかったが彼女の言いたいことは何となく分かった気がした。
それと同時に、面白い思考の持ち主だなとも思った。
「そろそろ私は行くよ。君も早く帰りなよ?」
「子供にそれを言われることがあるとは夢にも思わなかったよ。君も気をつけて帰りなよ」
コーヒーを飲み終わり、ホームから立ち去ろうとする少女の背中を見送った。
彼女は出ていく前に、にっこりと可愛らしい笑顔で笑った。
それがどこか懐かしく、俺の心の奥の記憶と重なった。
あの笑顔、確かに知っている。
失ってしまった、あの人の笑顔と重なって見えた。
「コーヒーなんて久しぶりに飲んだな……せっかく忘れてたのに……」
彼女が立ち去った後、必死に頭の奥に抑えていた記憶が弾けるように浮かんできた。
雨とコーヒー……それは俺の過去の”喪失”に深く関わるとして、極力避けてきた。
思い出したら心が痛すぎて、潰れてしまいそうだから。
でも――
「ありがとうな、”彼女”の笑顔を思い出させてくれて」
悪いことばかりではないと、心が少し晴れるのを感じた。
長らく思い出していなかった記憶の一部を、この機会に思い出すことができたのだ。
俺はもう立ち去った少女に向けて、静かなホームで感謝をこぼした。
その言葉は雨音にかき消されたが、確かに胸の奥では響いていた。
「じゃあ、俺も帰るとするかな」
飲み終えたコーヒーの空き缶を駅のごみ箱へと投げ入れ、タクシーに連絡しようとスマホを取り出す。
薄暗いホームの中で一際明るく俺の顔を照らした液晶が示した表示はバッテリー切れだった。
”最悪”の二文字が並び、まだ少し空想の世界にいた俺の意識を完全に現実へと引き戻した。
「参ったなぁ……」
ここから歩くとなれば一時間はかかる。
天気予報など見ていなかったので傘も持ってきていない。
そんな状態でこの雨の中を歩けば、次の日に風邪を引くことは免れないだろう。
止むまで待つか? いや、さすがにこんなところにずっといるのは嫌だな。
そう思った俺は考えた末、近くにあるコンビニへと立ち寄ることにした。
「いらっしゃいませ!」
入店してすぐ、こちらの存在に気づいた若い女性店員が笑顔で挨拶してくる。
俺は軽く会釈して返し、何かないかと食品棚へと向かった。
店内には俺以外客がおらず、静かそのもので落ち着きを感じる。
きれいに並べられた商品を見ると、この店の丁寧さが垣間見えるというものだ。
(今日は晩飯を作る時間もないだろうし、その分も買っとかないとな)
適当に弁当やお菓子を手に取り、レジへ持っていこうとしたとき、俺の視界にふと変な光景が入ってきた。
それは、いつもは笑顔で立っている女性店員が、なにか珍しいものを見るかのように目をぱっちりと開け、じ~っと店の外を眺めている様子だ。
変だなと思った俺も、彼女の気を散らさぬようにゆっくりと外を見る。
しかし、そこにはただ雨が降る駐車場があるだけだった。
何もないじゃないか、と思って目線をレジに戻すと彼女もまた顔に笑顔を戻して業務に戻っていた。
きっと、タイミング悪く俺が見逃しただけだろう。
そう言い聞かせ、手に持った商品を店員に渡した。
「やっぱり、電車に乗り遅れたんですね。歩いて帰るんですか?」
店員がくすくすと笑いながら聞いてくる。
どうやら、俺が毎日遅くてもあの電車で帰っていることを知っているようだ。
特に接点もない自分のことを彼女が認識していたということが、俺の中では衝撃的で、少し戸惑った。
「雨が止んだら歩いて帰るつもりです」
「ちなみにいつもどこの駅で降り出るんですか?」
口を動かしながら、それでもテキパキと手を動かす彼女にどこか感心する自分がいる。
人と話すのはあまり好きではないが、たまにはこういうことがあってもいだろうと、俺は質問に答える。
「〇〇駅です」
「え!? 近くに住んでたんですね。実は私も家の最寄り駅が〇〇駅なんですよ」
「奇遇ですね」
たった一言で返して、冷たく感じられるかもしれないが紛れもない本心だ。
なにせ俺の住んでいる地域は家やアパートよりも会社やら工場やらの方が圧倒的に多く、昼は人口が多く、夕方になると大幅に減るという少しおもしろい地域なのだ。
そんな地域に住む数少ない住人の一人が、いつも利用しているコンビニの店員だとは夢にも思わなかった。
「そんな奇遇な出会いをした記念に、家まで送ってあげましょうか!? 私もうすぐ上がるので!」
「一時間歩けば着くので大丈夫ですよ。気持ちだけありがたく受け取っておきます」
「もう! 私がいいっていうんだからいいんです! それに一時間も歩いてたらもっと遅くなりますよ!? 雨だっていつ止むか分からないのに」
前半の理論はよくわからなかったが、後半は彼女が正しいだろう。
現在時刻はもう二時を回りかけているし、雨脚はまだまだ強い。
もしかしたら明日まで止まないかもしれない。
もしそうなったら、ここの軒で一晩過ごすことになるかもな。
そう考えれば、彼女の提案はかなり魅力的なものだ。
だが一つ、どうしても提案を受け入れるという決断を俺に下させない原因があった。
それは”雨”、そして車だ。
思い出したくないので今は詳しく言わないが、これらも俺の”喪失”に深く関わるので極力避けたい。
もしかしたら、”また”あんなことがおきるかもしれない。
そんな考えで頭の中が一杯になり、周りを見失っていた俺に店員が声をかける。
「無言ってことは了承ってことで! お代は千二十三円になります。袋はどうしますか?」
「あ、お願いします」
再び謎の理論を展開する彼女の声で我に返り、とっさに財布からちょうどの札と硬貨を取り出して支払いを済ませる。
それから商品を受け取り、速足に店を出ようとすると彼女の大声が背後から響いて呼び止められた。
「もう少し居てください! 絶対待っててくださいね!?」
そういうと彼女は店の奥へと入っていってしまった。
現在時刻は二時……彼女が上がる時間なのだろう。
このまま逃げてしまおうかという考えが何度も頭をよぎったが、ここはいつも使う場所だし、彼女のいる時間と俺の利用時間が被っているため、これからのことを考えるとそれはできない。
結局、俺の足は動かないまま彼女が来るのを待ってしまった。
店の入り口前で待っていると、私服姿に着替えた彼女が中から出てきた。
先ほどまで彼女が立っていた場所には、若い男性店員が入れ替わっている。
彼も同じように愛想のよい笑顔を浮かべて無人の店内を見つめている。
「ちゃんと待ってて偉いぞ! さぁ、帰ろ帰ろ!」
勤務時間外だからだろうか、”先ほどまで”お客様だった俺にしっかりとため口を使ってきた。
つい数分前まで丁寧語だったというのにこの切り替え……これも感心していい部分なのだろうか?
なんだか、プライベートでも丁寧な口調を崩さない自分がとても堅いイメージに思えてきた。
まぁ実際堅いんだろうが、こうしていると他人が好んで寄ってくることがない。
この店員のように”一部例外”もいるが、他人と離れている方が気が楽な俺からすると、これでいいと思っている。
彼女が車のカギを開けてエンジンをかけ、助手席の扉を開けて乗るように促してくる。
「どうぞ乗ってください。”多分”きれいなはずです!」
「……失礼します」
”多分”と保険をかけてくるに、内心汚いのかなぁと思ったが、いざ中に入ってみるとごみ一つなく、目立つ汚れもないとてもきれいな車内となっていた。
だが走行距離のメーターを見るに、決して最近かったばかりの新車というわけではなさそうだ。
こういうところからも、その人の内面が分かるというものだ。
今、俺の中では確実に彼女の評価が上昇した。
まぁ俺からの評価なんて誰も得しないし、彼女も別に必要ないだろうが。
「いつも思ってたけどあなたって無口だね」
「まぁ……そうですね」
アクセルを踏み、車両を発車させてすぐに彼女が話しかけてきた。
俺は窓から真っ暗な景色を眺めながら一言で返す。
そんな不愛想な反応に少しも嫌な顔をせず、笑顔のままでいられる彼女の気持ちを理解するのは難しそうだ。
「私、一年くらい前にあそこで働き始めたんだけど、その時店長からあなたのことを聞いてずっと気になってたんだよ」
「俺はあそこの店長と話した記憶がまったくないんですけど」
交わした言葉といえば、会計時の「お願いします」「ありがとうございました」だけだ。
そんなこと言うやつは他にも大勢いるだろうし、別に俺にはこれといった特徴もない。
相手に認知される要素がないのだ。
強いて言うならかなりの頻度で通っていることだが、それでもなにか俺のことで話題になるようなことはないはずだ。
「暗くなったんだよって。数年前はとっても明るい人だった――」
「すみませんがその話はやめてもらえますか? もう、思い出したくないので」
彼女の言葉を遮り、俺は暗い声で水を差す。
窓ガラスの反射越しに、すこし申し訳ないような……明らかに気分が沈んだ彼女の表情が見え、自分の心にも罪悪感が広がる。
「ごめん……」
「いえ、すみません」
この言葉を最後に、車内の空気はずっと暗く重たいままだった。
彼女はずっと居心地が悪そうにしてこちらを向かなくなったし、俺も俺で必死に外の景色に集中していた。
真っ暗な中で微かに見える雨粒、たまに見える電柱や街灯。
こんな見慣れたものでも必死に見ていないと頭に”喪失”の記憶が浮かんでも来てしまう。
人は集中していると時間がすぐ過ぎていくというが全くその通りで、気づけば車内からの景色はとても見慣れたものへと変わっていた。
〇〇駅に着いたのだ。
彼女は車を駅内の駐車場に止めると、サイドブレーキをかけてエンジンを停止させた。
「着いたよ! もう遅いんだから早く帰りな」
「本当にありがとうございました……って、あなたは帰らないんですか? まさかここに止めたまま……」
この近くに住んでいるとは言っていたが、さすがに駅の駐車場に車を止めたままではないだろう。
もうそうなら翌日には違反切符が貼られていそうだ。
だがそんな心配は余計だというように、彼女はくすくすと笑った。
「まさか。ちょっと散歩しようと思っただけだよ」
「そうですか。女性一人この時間に歩くのは危険なので気を付けてくださいね」
「えぇ~、危ないから一緒に歩くよとか言ってくれないの!?」
「ついさっき”あなたに”早く帰れと言われたんですけど?」
なんてコロコロと意見が変わる人だと思った。
そんな理不尽さに絶望する俺の表情を見て、再びくすくすと彼女が笑う。
「冗談だって。じゃあ、またね」
クルリと俺に背を向けて、彼女は奥へと歩き出した。
その背中を見送ろうとしたが、とっさに声が出る。
「あ、そういえば――」
自分から人に話しかけることは滅多にない俺だったが、別れ際にずっと気になっていたことを聞こうとつい呼び止めてしまった。
彼女は不思議そうな顔をして振り向くと、にやりと笑った。
あ、面倒くなるなと本能的に感じた。
「なになに!? やっぱり一緒に散歩したく――」
「なってません。聞きたいことがあるんです」
すると彼女はうーんと人差し指を唇に当て、わざとらしく迷う様子を体で表す。
そして”仕方がないなぁ”というように笑う。
「いいだろう、言ってみなさい!」
内心、〇〇してくれるならいいよ? とか言ってきそうで後悔していたが、予想に反して素直に質問を受け入れてくれるようだった。
なので彼女の気が変わらない内にと、さっそく本題をぶつける。
「今日、帰る前にコンビニで何を見てたんですか?」
「コンビニ……あっ、駐車場のやつのこと!?」
「多分それです。じっと見てたやつ」
覚えがありそうな様子を見ると、少しは珍しいものを見たのかもしれない。
ちょうど俺は見逃してしまっていたため気になったのだ。
彼女はジッとこっちを見つめ、口角を大きく上げてニカッと笑う。
そして大きな声で答えた。
「秘密!」
と。
内心教えてくれるとばかり思っていて、秘密にされるとは思わなかったのでびっくりした。
だが人に探られたくないことがあるのはよく理解しているので、「そうですか」とだけ答え、それ以上は深堀しなかった。
これで聞きたいことも終わったので、帰ろうと一礼して背を向けると、彼女もひらひらと手を振って背を向けた。