急変
「はあっ、はあっ……すみません、兄ぃ……」
「……気にすることないって、ミヤビはなんにも悪くないんやから」
横になっているミヤビがゆっくりと首を動かそうとするのを、イナリは手で制する。
ミヤビの動きはあまりに緩慢としていて、その息は荒く、頬は熱を持っていた。
現在彼らがいるのは、新たな魔境……ではなく、エイジャの領都であるカノスケであった。
あれからアラヒー高原を抜けたイナリとミヤビは、そのまま次の目的地であるタリバーディン湿地帯へ向かっていたのだが……あと少しで到着するかというところで、ミヤビが病に倒れてしまったのだ。
イナリがヒールソードを使っても治すことができず、近くの街にいた回復術士に頼んでも病名すらわからなかったため、イナリは修行を一旦中止して彼女を領都まで連れてきた。
辺境伯家お抱えの医師に診てもらったことでなんとか病名は突き止めることができたものの、病気は未だ治すことができずにいる。
彼女が罹患した病気は、その名をリンカ病という。
その症状は時折やってくる高熱と絶え間なくやってくる痛み……そして体内の魔力が練れなくなるというもの。
放置していれば症状は悪化していき、最終的には魔法が使えなくなってしまうという、魔法使いにとってはあまりに致命的な病気だった。
(僕は……大馬鹿者や)
ミヤビは目を瞑り、いつもうっとりとしている彼女に似つかわしくないほどに眉間に皺を寄せていた。
頬を赤くしながら荒い息を吐いているミヤビを見て、イナリは歯を食いしばる。
その力が強すぎたせいで、奥歯がばきりと音を立てて割れた。
―――彼女が倒れた原因は、間違いなくイナリにある。
イナリは当時の自分と同じだけの、厳しい鍛錬と勉強をミヤビに課していた。
彼女が自身で願ったから、などというのはただの言い訳だ。
ミヤビがまだかよわい十三才の女の子であるということを、本当の意味で理解していなかった。
全ての責任は自分にあるに違いない。
「ミヤビ、何かしてほしいことはない?」
「う、うちは……」
ミヤビが顔を上げる。再び熱が出始めたのか、その目は上手く焦点が合っていない。
彼女がゆっくりと言葉を紡ぐのを、イナリはじっと待った。
「うちは兄ぃに……魔境に行ってほしいです。うち、これ以上……兄ぃの邪魔、したないよ……」
「……っ!!」
「ごめん、ごめんな、兄ぃ……うち、兄ぃに迷惑かけてばっかりや。ダメな妹で、ごめん……」
それだけ言うと、ミヤビの手からフッと力が抜ける。
急ぎ確認するが、どうやら意識を失っただけらしい。
イナリはそのまま音を立てずに部屋を出た。
彼は自室へ戻ると……部屋の壁に、拳を思い切り打ち付けた。
ドゴオッ!
レベルが上がり常人の域を超えている彼の一撃は容易く壁に穴を開け、その内側にある土台を露わにする。
イナリは常に飄々としている彼からすれば珍しいほどに、激昂していた。
その怒りの矛先は、当然ながら自分自身だ。
けれど怒りは思考を鈍らせ、視野を狭くする。
どうしようもないほどの怒りに満たされている今だからこそ、冷静さだけは失ってはならない。
「……ふぅ……」
ゆっくり息を吸い、吐き出す。
自分を戒めることは後でもできる。
けれど今すべきことはそれではない。
何度も深呼吸をしているうちに、ようやく少しだけだが心が落ち着いてきた。
(今僕の心を満たしてる激情は、これから赴く場所で思いっきりぶちまけたる)
イナリは呼吸を整えゆっくりと部屋を出る。
ドアをガチャリと閉じた時には、彼はいつものイナリ・サイオンジの顔を取り戻していた。
リンカ病は流行性感冒などではなく、基本的には偶発的に生じる難病だ。
治療法は確立されておらず、王国においては不治の病とされている。
現時点では治すことはできないこのリンカ病だが、イナリはこの病気を治すために必要なものがなんなのかを、イナリは知っていた。
何せこのリンカ病は……とある大魔法師がかかり、それを治すために奔走するクエストの中で出てくる病名なのだから。
(今の僕からすれば無理もええとこやけど……しっかり手順さえ踏んでいれば、絶対に不可能っちゅうわけじゃないはずや。それにあそこなら魔境みたいなもんやし、ミヤビのお願いにも反しとらんはずや)
クエストとはプレイアブルキャラを増やしたりそこでしか手に入らないレアアイテムを手に入れるために行う、物語の本筋と関係しないサブ要素の一つだった。
今回イナリが参考にするクエスト――『大魔法師の不治の病を治せ』。
これは物語中盤後半~終盤において、かつての勇者パーティーの一員の子孫である、とある女性を仲間にするために必要なクエストである。
公式サイトによる推奨レベルは――六十五。
序盤からクエストとして掲載されていながらも、それをクリアするのは魔王の四天王と激突することになる終盤までは実質不可能とされていた。
イナリはこれから単身で、そのクエスト攻略の道筋を辿ってゆくことになる。
オーチャードを狩り続けたとはいえ、彼のレベルは未だ二十五。
とてつもなく厳しい戦いになるのは間違いない。
けれど……。
「それじゃあミヤビ、お兄ちゃん行ってくるわ。ええ子にして待ってるんやで」
「うん……うち、待ってる、待ってるよ……」
意識を朦朧とさせながらも、そう健気に告げるミヤビのことを見れば、恐怖心は感じなかった。
そっとミヤビの手を包む彼の手はあまりにも優しく……そしてその瞳の奥にある炎は、どこまでも激しかった。
イナリは事前に集めていた情報を元に動き出す。
向かう先は、王国中央部にある交易の街キルケラン。
そこに彼が求める素材を持つ魔物達――上位魔族である吸精鬼がいる。




