第98話
そんな生活をカリフォルニアに日本本国から移住してきた農民たちが行う一方で、私を始めとする武将たちは、様々な軍事訓練をしたり、各地の探査を行ったり、といった生活を送っていた。
何しろ、メキシコ等にいるスペイン軍に、カリフォルニアへの日本の入植が発覚した場合、当然のことながら、スペイン軍からの攻撃があると覚悟せねばならないのだ。
既にこちらからマニラを始めとするフィリピン諸島のスペインの拠点を攻撃して、日本の植民地にしている以上は、スペインが報復としてカリフォルニアに攻撃を仕掛けてきて当然なのだ。
マニラ等が日本領になったということについて、出来る限りはスペインに伝わらないように、我々も情報遮断に努めてはいるが。
そうは言ってもメキシコからマニラへ、更にそこから明を経て、メキシコへというマニラ・ガレオン航路の船が、一隻もメキシコに還らない年月が続けば、マニラに異変があったのは必然的にメキシコに、更にスペイン本国まで伝わって当然だ。
(後、余談に近いが。
メキシコからマニラを経て、明に向かうガレオン船は、明で絹や陶磁器を買い付けるために、メキシコで大量の銀を積んでいた。
マニラを事実上は自領にしている徳川家は、暫くの間はそのガレオン船を拿捕することで、植民地開発の費用をそれなりに稼ぐことができた)
実際に1599年までの間に、マニラ等の現状を確認して、もし、何らかの異変、外国によって攻撃されて占領されていたならば、マニラ等を奪還しようと、それなりの数、約一千のスペイン兵がマニラを偵察の上で、攻撃を仕掛けようとしてきたことまで、一回、あったとのことだ。
だが、これは余りにも無謀と言われても仕方のない行動になった。
何しろ、マニラ近辺には徳川家が入植していて、松平秀康を主君に仰いだ約三千の徳川軍の将兵が、すぐに準備を整えられる状態でいたのだ。
更に一報を受ければ、高山国やミンダナオ島に入植している武田家や上杉家も、マニラ救援軍を差し向けられるような手筈が調えられており、それらを併せれば、軽く1万を超える軍勢がマニラ防衛及び救援を行うことが可能で、実際にそのような事態が起きた。
更に日本の軍艦も、スペインとほぼ同等のガレオン船が主力となっており、数的にも陸軍と同様にほぼ10倍の数を調えることができていた。
こうした状況下、質では同等、量では10倍以上の大軍を相手にして、しかも太平洋を越えて来て、近くに補給等の拠点が皆無の状態で、スペイン軍がマニラを攻略しよう等、後でそれを聞いた私からすれば、完全に狂人が行うような代物としか言いようが無かった。
だが、それでもスペイン軍は勝利を確信していたらしい。
レコンキスタの勝利の栄光を誇り、それこそ世界を征服する勝利を収めて来たキリスト教の聖戦士である自分達が、異教徒の蛮族である日本人に敗北する等はアリエナイ。
我が軍が敗北すると主張するのは、それこそ神を信じない主張である、とまでスペイン軍に従軍していた宣教師達に至っては主張していたと、後から私は聞いた。
実際にこれまでのスペイン軍の栄光、アステカやインカを征服して、更にマニラでも勝利を収めてきたことを考えれば、そう考えるのも無理はないが、現実には余りにも無謀だった。
結果的に松平秀康率いる徳川家の軍勢の前に、スペイン軍はマニラ近郊への上陸作戦自体に失敗し、近くで補給を行おうと移動して、臨時の泊地に停泊したところを徳川家の水軍衆に封じ込められた。
後は武田家や上杉家も加わった兵糧攻めの果てに、スペイン軍の面々全員に対して棄教か死かが迫られ、棄教した者以外は処刑され、遺体は火葬にされたと私は聞いている。
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