第97話
1599年現在、日本の植民地のカリフォルニアの人口は、約30万人といったところだった。
この内の約3分の1が移住してきた日本人らで、残りが以前から住んでいた現地の住民だった。
尚、私達が入植してから10年程で、それなり以上に現地の住民の人口が減少する事態が起きた。
これはある程度、時代的にはやむを得ない話で、私達が改めてアジアの地から様々な伝染病を、現地の住民に持ち込んでしまったのだ。
それ以前から、コロンブスの来訪のために、徐々に北米の大地まで欧州からの伝染病が広まってはいたのだが、私たちのカリフォルニアへの移住は、それを大幅に促進する事態を引き起こしてしまい、現地の住民を減少させてしまった次第だった。
その結果として、部族が崩壊したといっても過言では無い現地の住民集団までいて、そう言った面々を私達は小作人等として受け入れて、農地等の開発に当たらせるような事態まで起きた。
このことは少なからず私の内心を痛めたが、その一方で、この事態はカリフォルニアへの日本人の移住に対する現地の住民の抵抗運動を弱める結果を引き起こしたのも、又、事実だった。
そうしたことが、カリフォルニアを日本の植民地とすることを容易にした。
それはともかくとして、地中海式農業を主に行い、大規模な灌漑設備が調えられないことから、稲作ができないことは、我々の食生活等を大きく変えざるを得ない事態を引き起こした。
例えば、主食は小麦を使った麺類やパンにせざるを得なかった。
又、羊を飼って、羊毛を造り、それを活かした毛織物を自分達の主な衣服にする一方、羊乳を使ったチーズや羊肉を食べるようなことにもなった。
更には果樹を育てて、それを食事に使ったり、酒類を造ったりということもした。
そして、小麦を育てないといけないということは、連作障害を避ける必要があるということでもあり、収量等の問題も相まって、広大な農地を開発する必要があるということでもあった。
そのために同じ畑地では1年おきに小麦を育てることにして、その間は豆類を育てたり、放牧地にしたりして、土地の地力を回復させ、連作障害を避けるような試みもせねばならなかった。
そうなると、人力で農地を耕すのには広すぎて、それこそ牛馬を使って耕さざるを得なかった。
そんなこんなが相まった結果、
「俺達は五町歩百姓だな」
と農民の多くが自嘲めいたことを言う事態までが起きた。
細かいことを言えば、それこそ羊とかを飼うとなると、それなりの集団で飼わざるを得ず、必然的に広大な放牧地が必要で、ある放牧地の牧草が乏しくなったら、別の放牧地に移して、それらは農家が共有していることも多いので、単純には言えないのだが。
一軒の農家が自立して、家族で食べていこうとするならば、五町歩の農地(一時的に休耕等している農地も含む)がほぼ必要と言えるのが、この当時のカリフォルニアの現実だった。
それに対して、日本本国だと一軒の農家が自立して、家族で食べていこうとするならば、その十分の一の五反の農地があれば、何とかなると言われていたのだ。
それだけカリフォルニアの農地の生産効率は日本本国と比べた場合、この当時は良くなかったのだ。
(尚、細かいことを言いだすと、五反百姓でも何とかなると言われるが、それこそワーキングプア生活がやっと、というのが現実で、六、七反は農地を持たないと、日本本国でもやっていけなかった。
それに対し、カリフォルニアの五町歩百姓の場合、それこそ米こそ食べられないが、麦に加えて、乳製品や肉類も食べられるし、更に果物や羊毛といった商品まで栽培しており、五町歩の農地を持てば、それなり以上の暮らしができたのだ)
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