第96話
久々の主人公の徳川信康視点の話に戻ります。
時は流れて、1599年になっています。
そんなことがインド洋方面ではあったのだが、私は家臣や領民、更に主に奥羽の大名や家臣や領民達と共に、カリフォルニアの開拓に自らも赴いて何年も悪戦苦闘する羽目になっていて、気が付けば1599年になっていた。
植民地開拓を行うと口で言うのは簡単だが、実際のところ、農地にするのに適したところには、大抵の場合、既に現地の住民がそれなりに住んでいることが多い。
そして、そういった土地を住民から買い取れば良い、と言われそうだが、では、土地を売った住民は何処に住めばよいのだ、という問題が必然的に発生するのだ。
だから、止むを得ないで済ませてはいけないが、必然的に弓矢の沙汰で、ある程度は住民から土地を奪って、植民地の開発を行わざるを得ない事態が起きた。
勿論、私としても、できる限りはそういった事態は避けたかったが、それこそ田畑を開発し、更に牧場を造るとなると、それに適した土地はどうしても限られており、そこには既に人が住んでいるのが当たり前だったのだ。
そうやって何とか土地を確保しても、当然のことながら、カリフォルニアの気候は、日本の気候とはかなり異なっている。
日本本国のように寒暖の差が激しいことがないのは有難いが、日本本国と比較すると降水量が相対的に少ないという問題がある。
こうしたことから、それこそ稲作をやろうとすると、大規模に水路を引いて、灌漑農業を行う必要性が極めて高く、最初の頃は人口が少なく、そんな水路を造る余裕がないこともあって、それこそ地中海式農業を私達はやらざるを得なかった。
具体的に言えば、冬場に小麦を育て、その合間には羊や牛や豚といった家畜を移牧し、果樹を育てることになった。
だが、牛や豚はともかく、この当時の日本に羊はいないと言っても過言では無く、それこそ倭寇を介して、モンゴルから牧羊犬も共に導入し、更に羊や牧羊犬の扱い方を知っている者を様々な手段で招く事態が起きた。
更に言えば、その中には東南アジアからインド洋における日本との戦いの中で捕虜になって、キリスト教を棄教したポルトガル人やスペイン人までがいるという事態まで起きた。
皮肉なことに、彼らは本来の故郷で地中海式農業を体験したり、実地に見聞したりしており、カリフォルニアの開発の援けに役立つことになった。
そして、人が少ないという問題を解決する必要もあったことから、出来る限りは既に住んでいた現地の住民との協力体制に、私達は苦心せざるを得なかった。
本願寺を中心に、様々な仏教の僧侶を招いて、現地の住民に仏教を広めることで、同じ宗教を信じる仲間という意識を広めるようなこともした。
又、土地を奪っておいて、という批判にさらされそうだが、現地の住民を小作人等として雇い入れ、それで、この地における農業の発展に努めるようなこともしたのだ。
更にそういった農地の開拓を行う一方で、カリフォルニア沿岸部のみならず、内陸部の探検も私達は試みざるを得なかった。
それこそ、私の覚束ない知識に因れば、カリフォルニアには大量の黄金がある筈で、史実でもゴールドラッシュを19世紀半ばに起こしているのだ。
それを、今の時代に見つければ、黄金の魅力で大量の人を呼ぶことが出来る、という考えが私の頭の中で過ぎったのだ。
それにカリフォルニアを、対スペイン戦争の際の前進拠点とする以上、出来る限りの地形等を把握した上で農業等を振興して、戦時には役立てる必要がある。
それこそ昭和前期において、対ソ戦に備えて満州の開発に日本が勤しんだのと同じことだ。
こういったことから、10年近い歳月をかけて、私が率先してカリフォルニアの開拓に多くの者と協力するという事態が起きたのだ。
ご感想等をお待ちしています。