第95話(織田信房視点)
これが皮切りとなって、ポルトガルのコロンボの城塞は日本軍の占領下に入り、更にセイロン島のポルトガル領は相次いで、織田信房率いる日本軍の占領に入る事態が起きた。
それこそ織田信房自身が、
「こんなに容易にセイロン島が、我々の占領下に置かれて良いのか」
と言わざるを得ない事態だった。
更に言えば、仁科盛信と武藤喜兵衛が、
「(武田家四天王の)二代目を鍛えることが全く出来ませぬな」
と苦笑いして言い交わす事態としか、言いようが無い話でもあった。
それはともかくとして、この後の占領地統治の様々な費用等を考えれば、既定方針通りの行動を日本というか、織田信房は行わざるを得なかった。
更にそれを織田信房の周囲も、先が見える面々が揃っているだけに支持する事態が起きた。
何しろ武藤喜兵衛(真田昌幸)や直江兼続、石川数正らが随行しているのだ。
彼らが言えば、その周囲の面々も黙らざるを得ない。
更に余談に近いが、若い有為の人材もこの場には集っていた。
宇喜多秀家や毛利秀元といった面々である。
宇喜多秀家は、宇喜多家への織田家からの覚えを良くしようとする羽柴秀吉の推薦から、この場に赴いていた。
毛利秀元は、既述の毛利家と織田家のトラブルもあって、伯父の小早川隆景から、
「少しは世界の現実を実際に見てこい」
と指導を受けて、僅かな近習と共にこの場に赴いていたのだ。
宇喜多秀家や毛利秀元は、相対的に若いこともあって、この現実に素直に驚嘆することになった。
(宇喜多秀家は1572年生まれ、毛利秀元は1579年生まれである)
二人共に十代の若さであり、現実と言うものを素直に受け止めることが出来たのだ。
ともかく、こうしたことから、日本はセイロン島において、コロンボとトリンコマリーという二つの拠点を確保し、更にそこに城壁に囲まれて、自治が認められた日本人街を築くことになった。
尚、それ以外のセイロン島の大半はキャンディ王国の領土となり、残りはジャフナ王国の領土となることで、セイロン島の統治はある程度は安定することになったのだ。
更にこの戦果を活かして、織田信房とその指揮下の面々は、インド本土や東アフリカ等のポルトガルの領土に対する攻撃を展開することを決断した。
これにポルトガル側も懸命に抗戦したが、喜望峰周辺を日本の植民地にする計画が順調に進捗したこともあって、本国からの増援も真面に届かない現実があっては、それこそインド本土や東アフリカのポルトガルの拠点が、事実上は個々に戦って、日本の攻撃の前に各個撃破されていく、という事態が多発するのも当然としか言いようが無かった。
何しろこの当時のインド洋における確実な通信手段は、実際に船による伝令頼みなのだ。
こうした状況では、ポルトガル軍が拠点を個々に守ろうとする程、日本軍の各個撃破の好餌になるのは当然としか言いようが無かった。
更に言えば、この当時のインド洋に展開している日本軍とポルトガル軍の実際の戦力比は、日本軍がポルトガル軍の約5倍と言う現実があるのだ。
それに日本側はまだまだ国力に余裕がある中で戦っているのに対し、ポルトガル側は文字通りの総力戦を強いられるという現実がある。
こうしたことから、現実には1600年頃まで時間が掛かることにはなったが。
「喜望峰周辺から東のインド洋では、ポルトガル(南蛮)人は板切れ一枚浮かべることはできない」
とオスマン帝国や日本等で謳われる事態が、17世紀以降に起きるのは必然としか言いようが無かったのだ。
そして、この結果は、経済力の低下からポルトガルが最終的に独立を失い、アラゴン等と同様にスペイン王国の統治下に服する事態までも引き起こすことになったのだ。
これで織田信房視点の話は終わり、次話から徳川信康の話に戻ります。
尚、時と場所は流れていて、1599年のカリフォルニアが最初の舞台になります。
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