第90話(織田信房視点)
実際、羽柴秀吉(及びその部下達)が、インド洋作戦への毛利家等への協力を求める件について、本当に一筋縄ではいかない話になった。
織田信忠から、この話を振られた当初は、秀吉は気楽に引き受けた。
実際に秀吉なりに自信もあった。
「ま。すぐに毛利家中を説得できるだろうよ」
「余りにも気楽に考え過ぎでは」
秀吉がオスマン帝国に赴いている間、留守居役を任されていた秀長や黒田官兵衛は、この件を秀吉から聞いた際に、そのように秀吉を諫めたのだが。
「何、オスマン帝国に赴くのに三島村上水軍衆を、毛利家は差し出したではないか。此度のセイロン島攻略でも、すぐに協力してくれる。それに儂は小早川隆景殿と昵懇の仲だぞ」
秀吉は、そのように軽く考えて、秀長や官兵衛にそう言った。
だが、実際に蓋を開けてみると。
「三島村上水軍衆をセイロン島攻略に使うのは構いませぬが、毛利家は色々と内部事情があり、セイロン島攻略への協力は致しかねます」
「これは朝廷や幕府の命でもありますぞ。それを毛利家は拒むと言われるのですか」
「拒むとは言っておりませぬ。三島村上水軍衆を協力させます」
そんなやり取りが、浅野長政と小早川隆景の間で行われることになった。
毛利家と言っても、必ずしも一枚岩ではない。
それこそ毛利両川と言う言葉があるように、毛利元就の後継者の輝元が毛利家を継いだ後は、吉川元春と小早川隆景という毛利輝元の叔父二人が、毛利家の舵取りを担っており、更にこの二人が常に協調してきた訳ではない。
更に言えば、この頃には吉川元春は物故し、又、小早川隆景も老いから隠居しつつあったと言っても過言では無く、吉川広家らが毛利家中での発言権を高めるようになってもいた。
又、毛利家中では織田家に対する反感が、それなり以上に高まってもいた。
この当時、毛利輝元には実子がいなかった。
そのために、毛利輝元は従弟になる毛利秀元を養子に迎えようとしたのだが、それに口を挟んだのが、織田信忠の意向を受けた羽柴秀吉だった。
羽柴秀吉は、織田信忠の弟になる織田信秀を、毛利輝元の養子に迎えるように言ったのだ。
当然のことながら、毛利家にしてみれば、織田信秀は毛利家と縁もゆかりも無い以上、断固、拒否するという態度を示すことになったのだが、単純に断ったのでは、足利幕府の管領を務める織田信忠と毛利家の関係が気まずいどころでは済まなくなる。
こうしたことから、小早川隆景が、それならば織田信秀殿を私の養子に迎えましょう、輝元殿にしても、何れは秀元を養子にしようと考えているだけです、と言うことで、婉曲に信秀を輝元の養子にするのを断り、秀吉も隆景殿がそう言われるのならば、ということで、その件は収まった。
(尚、信忠や秀吉にしてみれば、信秀を輝元の養子にするのが主眼だったので、信秀は隆景の養子にはならず、今でも織田家の人間のままでいる)
だが、この一件から、輝元にしても秀元を養子に迎える話が止まってしまい、ほとぼりが冷めてから輝元は秀元を養子に迎えるという事になったのだ。
こういった事情があったために、毛利家中では織田家に対する反感が高まっており、織田家の言うことを素直に聞けるものか、という吉川広家らの意見を、隆景も抑えられなくなっていた。
こうした背景事情から、事実上は秀吉を介したセイロン島攻略作戦への、朝廷や幕府からの協力命令を素直に毛利家は聞かないという事態が起きたのだ。
秀吉にしてみれば、思わぬ失態と言っても過言では無い出来事だった。
秀吉は様々な手段で働きかけたが、毛利家は軟化せず、最終的には三島村上水軍衆のみがセイロン島攻略作戦に協力するということで、話がまとまることになった。
史実では小早川秀秋の話に繋がるのですが、この世界では織田信秀がその役目を担ったという事でお願いします。
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