第85話(織田信房視点)
そんな風に商業や宗教面の問題点が解消されていった一方で、織田信房を団長とするオスマン帝国への日本の使節団の間では、オスマン帝国からの情報提供もあって、今後のインド洋方面における日本の国家軍事戦略が論議される事態が起きることになった。
この辺りについては、それこそこの当時の世界についての様々な認識が、日本人同士であっても色々と異なっていたという事情が極めて大きい。
前世の知識がある徳川信康は完全に別格として、スペイン人とポルトガル人の区別すら、真面にできずに南蛮人として一括りにする日本人が、この当時では珍しく無かったのだ。
それこそ外国人を見れば、全て外国人と見るようなモノである。
こうした大前提があっては、インド洋方面における日本の国家軍事戦略について、日本政府というか、朝廷や幕府が真面に立案できていなかったのも、止むを得ない話と言えた。
更に言えば、徳川信康は、この当時はカリフォルニアの植民地開発で手一杯にもなっていたのだ。
「オスマン帝国からの情報提供によれば、セイロン島のコロンボや、インド本土のゴアや東アフリカのキルワやペルシャ湾のホルムズといった拠点を、ポルトガルは領有しており、そこに艦隊を常駐させて、インド洋の海上交易を制しようとしているとのことです」
「ふむ」
オスマン帝国の外交、軍事官僚からの情報提供を受けて、浅野長政はそのように織田信房や羽柴秀吉にまずは報告して、それに織田信房は答える事態が起きていた。
「この問題について、どのように対処すべきだろうか」
「そうですな。地図から見る限り、まずはセイロン島を抑えるのが肝要と考えます」
織田信房の問いかけに、羽柴秀吉は即答した。
尚、羽柴秀吉の横では、加藤清正や福島正則といった面々が、その言葉に肯いている。
「セイロン島を抑えた後は」
「言うまでもありません。インド本土、ペルシャ湾、東アフリカと順を追って、ポルトガルのインド洋に面した各地の拠点を潰していくまでです。それこそティモール島やマラッカを、我らが迎えたようにです」
「ふむ」
織田信房と羽柴秀吉のやり取りは続いた。
実際に二人のやり取りの背景は、そう間違ってはいなかった。
当時のティモール島は良質な白檀の産地として知られており、そうした背景から、ポルトガルが植民地化を果たしていたのだが、結果的に上杉家の軍勢によって、ティモール島のポルトガル人は追い散らされる事態が起きていた。
マラッカに至っては、武田家に徳川家や上杉家が加わった軍勢が、ジョホール王国軍との共同作戦によって、ポルトガル人が追い散らされる事態が引き起こされている。
尚、この当時の戦争の常として、こういった戦争の末に捕虜となったポルトガル人の多くが、奴隷として売り飛ばされる事態が結果的に起きてもいた。
(これに対して、現代の感覚からすれば、極めて非人道的だ、無償で日本は自腹を切って、ポルトガルまで捕虜を送り返すべきだった、と叩かれるだろうが。
そもそもこの当時の常として、ポルトガル人が積極的に周囲の異教徒の原住民を、奴隷狩りの末に奴隷として売り飛ばしている現実があっては、因果応報としか言いようが無い話だった)
「確かに、世界地図を見る限りでも、セイロン島のポルトガル領を、まずは日本の手に抑えないと、インド洋の東西間の交易を抑えることはできまい。それに加えて、日本が喜望峰周辺を抑えれば、ポルトガルが軍艦等をインド洋に送り込むのは困難となり、インド洋を日本が制することになるだろう。それを目指して、我らは行動すべきだろうな」
織田信房は、そのように自分の考えの結論を述べた。
更に、その言葉に羽柴秀吉らも同意したのだ。
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