第83話(織田信房視点)
「ここがオスマン帝国の首都コンスタンティノープルか」
「あれに見えるのが、オスマン帝国の皇帝といえるスルタンのいるイェニ・サライ(トプカピ宮殿)とのことですな。尚、言うまでもないことながら、スルタンの後宮もあるとか」
「そうか」
コンスタンティノープルについて早々に、織田信房と羽柴秀吉は、そんな会話を交わしていた。
そして、流石にスルタンであるムラト3世と直接に面会することはできなかったが、織田信房と羽柴秀吉は、オスマン帝国の大宰相府等と実務における話し合いを、数か月に亘って行うことになった。
尚、従前からオスマン帝国と国交があったアチェ王国の外交官を伴っていたこと等から、織田信房を団長とする日本の使節団は、オスマン帝国からそれなり以上の待遇を最初から受けることが出来た。
もっとも日本の使節団が、それなり以上の待遇を受けることに成功したのは、それ以外にも理由があった。
アチェ国王からの書簡やアチェ王国の外交官の言葉から、オスマン帝国政府は、日本がスペインやポルトガルと敵対していることを把握することになったのだ。
オスマン帝国にしてみれば、ポルトガルはインド洋方面での宿敵であり、スペインは地中海の制海権を自国と争う宿敵と言える国である。
そして、日本はポルトガルやスペインと戦っている。
敵の敵は味方、と常に言える訳では無いが、そうは言っても、オスマン帝国にしてみれば、日本と友好関係を結ぶのには前向きになれる事情だった。
そして、日本の勢力圏からもたらされる交易品にしても、オスマン帝国にしてみれば、極めて有難い物が多数あった。
まずは香辛料である。
オスマン帝国の国内においても、それなり以上の需要がある交易品であり、更に欧州諸国も買い求める交易品なのだ。
それを日本は、オスマン帝国との間で独占交易をしたい、という申し入れをしてきたのである。
このことは必然的にサファヴィー朝に対する事実上の経済封鎖に、日本が協力すると言ってきたことに他ならず、オスマン帝国にしてみれば、極めて有難い申入れに他ならなかった。
他にも中国の絹製品や陶磁器、日本の漆器が、オスマン帝国政府に対して、日本の商人が取り扱える商品として示される事態が起きた。
こういった品々が奢侈品といえば奢侈品なのは否定できない話だが、そうはいってもオスマン帝国の上層部の面々にしてみれば垂涎の品々といえたし、更にオスマン帝国内にいる多くの商人の目からしても、日本の商人がもたらす品々は欧州諸国の貴族や裕福な商人が、積極的に買い求めるだけの魅力のある品々と見られた。
そして、日本はこういった品々について、紅海を基本的な通商路として交易関係を結びたい、とオスマン帝国政府に対して言ってきたのだ。
この日本からの申し入れを断っては、それこそ日本がサファヴィー朝に対して交易関係を結ぶことを申し入れることになって、却ってオスマン帝国に不利を招きかねない。
そういったことまでもが考え合わされた末に、オスマン帝国は日本との通商協定締結に応じる事態が起きた。
そして、通商協定締結の見返りとして、入港税として日本の商船は積荷の20分の1,つまり5パーセント、又はそれに相当する売上金をオスマン帝国政府に上納することを求められることになった。
一見すると極めて高額に見える話だが、この程度の入港税は、この当時では当たり前といえる程度の話である。
そうしたことから、日本とオスマン帝国の通商協定締結は、最終的にはまとまることになった。
その一方というか、その裏では、日本の商人はオスマン帝国からの輸入品を検討する事態が起きた。
様々な品々が検討されたが、珈琲が一番に挙がった。
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