第81話(織田信房視点)
「それにしても、様々な素性の者がオスマン帝国に赴くものよ。本願寺の僧侶もおれば、堺や博多の商人まで使節団に加わるのを求めるとはな」
「全くですな。とはいえ、僧侶に関しては本願寺の面々だけで良かったですよ。下手に法華宗の面々まで加わっていたら、大騒動になっていました」
織田信房と真田信繁のやり取りは、海上でお互いに暇なこともあって、更に弾んだ。
実際問題として、オスマン帝国がスンニ派イスラム教を国教としている国である以上、仏教の僧侶を同行すべきかどうか、織田家というか、日本の朝廷や幕府もかなり悩む事態だった。
だが、オスマン帝国に日本人の商人を積極的に赴かせる以上、日本人も「啓典の民」であるとオスマン帝国政府に認めさせないと迫害の対象に日本人がなる公算が高い、と日本の朝廷や幕府に判断されたことから、仏教徒も「啓典の民」であり、当然に日本人も「啓典の民」である、とオスマン帝国政府に認識させるために、宗教論争が行えるように、日本の仏教の僧侶も、オスマン帝国の使節団に同行することになったのだ。
だが、問題は山積していた。
その中でも最大の問題が、どの宗派の日本人の僧侶を使節団に同行させて、オスマン帝国に赴くべきか、ということだった。
最初に自薦の声を挙げたのが、どの宗派かというと、法華宗の僧侶だった。
だが、朝廷や幕府、それどころか、他の全ての宗派の僧侶が反対の声を挙げる事態になった。
何故かと言うと、法華宗はそれこそ開祖の日蓮自ら、
「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」
と他宗派を批判してきており、更に切支丹排撃の先頭に立ってきた宗派でもあった。
これは、他の宗教や宗派でも多かれ少なかれみられる傾向で、自らの信じる宗教、宗派こそ正しく、それ以外の宗教や宗派を邪教や異端等として攻撃するのは、よくあることと言っても、そう間違いでは無いのだが。
ともかく、そんな法華宗の僧侶が、オスマン帝国の使節団に加わっては、オスマン帝国において宗教上のトラブルを引き起こすのは、あからさまに見える話であり、そうしたことから、法華宗の僧侶はオスマン帝国への使節団から排除されることになったのだ。
とはいえ、それならば法華宗以外のどの宗派が、オスマン帝国に赴くのが妥当かとなると。
それこそ天台宗に真言宗、南都六宗に加えて、禅宗や浄土宗系の諸宗派が、甲論乙駁の議論を交わした末に、武田家や毛利家の暗黙の支持を得た本願寺門徒の僧侶が、オスマン帝国へと赴くことで、最終的な合意が為されることになった、
勿論、この辺りは色々と裏話が転がるのだが。
実際問題として、後々のことまで考えると、更にオスマン帝国に自分達が支持する僧侶が赴いて、「啓典の民」であることが認められなかった場合に、日本国内外で生じる危険を考えると。
多くの日本国内の仏教の宗派の僧侶や信徒が、オスマン帝国に赴いて、仏教徒は「啓典の民」それの一員である、と訴えることを躊躇うのも当然の事態と言わざるを得なかった。
何しろ、コーランを虚心坦懐に読み込む程、仏教徒(更に言えば神道信者らも)が、「啓典の民」とは言い難いのは自明の理としか、言いようが無かった。
それなのに、日本の朝廷や幕府は、日本の仏教の宗派の僧侶に、仏教徒は「啓典の民」であると、オスマン帝国上層部に理解させろ、という無理難題を日本国内の仏教の僧侶達に押し付けてきたのだ。
現実問題として、イスラム教に詳しい日本の仏教の僧侶程、オスマン帝国に赴くことに消極的になるのが当然と言っても過言では無くなる話だった。
とはいえ、どう話を収めるかというと。
結局は本願寺が貧乏くじを引いて、オスマン帝国へと赴くことになった。
ご感想等をお待ちしています。
尚、法華宗以外の宗派の僧侶の本音としては、イスラム教に喧嘩を売ることになりかねない、オスマン帝国への派遣に消極的なのですが。
かといって、嫌がっていては法華宗の僧侶が、それなら自分がと言い出す事態が目に見えているというジレンマが起きていたのです。
そして、お互いに押し付け合った末に、空気が完全に読めていなかった武田家や毛利家が動いたことから、本願寺が貧乏くじを引きました。