第80話(織田信房視点)
暫くは事実上の外伝となり、織田信房視点が続きます。
「信繁、海は良いのお」
「はい」
織田信房は上機嫌で、自らの馬廻衆になる真田信繁に声を掛けていた。
織田信房は、それこそ乳児の頃に遠山景任の養子として送られており、東美濃の遠山家を継ぐのが本来だった筈なのだが、それこそ東美濃等を巡る織田家と武田家の戦争から和睦へと至った経緯から、最終的には遠山家から織田家に戻っていたのだ。
とはいえ、織田家と武田家が修好したことや、遠山家とのかつての縁から、未だに織田家と武田家の間の窓口的な存在と、織田家からも武田家からも見られている現実があった。
そうしたことから、お互いの歳が近いこともあって、武田勝頼の第一の側近になっている武藤喜兵衛は本姓である真田を次男の信繁に名乗らせて、織田信房の家臣として仕えさせることにし、次男を織田家との将来の取次役の一人にしようとした。
だが、武藤喜兵衛にしてみれば、思わぬ流れになって、織田信房はオスマン帝国の使節団長になり、信繁はその使節団の一員として赴く事態が起きてしまったという次第だった。
石山本願寺の跡に造られた石山港を、織田信房を使節団長として、2隻の大型ガレオン船と3隻の小型ガレオン船から成るオスマン帝国への使節団は出発しており、今の時点では日本本国内どころか、琉球王国から高山国まで後ろとなり、完全に南シナ海に入っている。
尚、細かいことを述べれば、2隻の大型ガレオン船には使節団が乗り込んだ上で、オスマン帝国への贈り物となる様々な品々が積み込まれている一方で、3隻の小型ガレオン船はその護衛艦として、完全武装が施されて、更に精鋭の軍人が乗り組んでいるのが現実だった。
「九鬼嘉隆でなくとも、九鬼の面々に護衛を任せたかったが、流石は瀬戸内の海を制していた村上水軍衆の面々と言うべきか、そんな自分の想いを吹き飛ばすような船乗り、武人を選んでくれたようだ」
「全くその通りかと」
二人は、そんなやり取りをしていた。
実際、オスマン帝国までインド洋を通って往復するだけには少々気張り過ぎの気さえ、二人にはしてならないのだが。
羽柴秀吉の人たらしの才能は、この世界でも十二分に発揮されており、播磨から美作、備前へ、更に備中へと山陽方面への織田家の侵出を成功させる一方で、毛利家の面々と宿敵になってもおかしくなかったのに、足利幕府による天下再統一が成った暁には、結果的に足利幕府管領になった織田信忠と毛利家を始めとする中国地方の諸勢力との取次役が、羽柴秀吉に任される事態を引き起こしていた。
そして、オスマン帝国への使節団の表向きは副使として、実際には実務面が羽柴秀吉にほぼ任されることを聞いた毛利家は、三島村上水軍衆をその警護役として推挙したことから、羽柴秀吉の口添えもあって、三島村上水軍衆がこの護衛任務に当たる事態が起きていたのだ。
三島村上水軍衆の宗家といえる能島村上家からは、当主の村上武吉自らが警護衆の総指揮官になって参加しており、その娘の景子までが、
「オスマン帝国に行ってみたいから」
と本気なのか、冗談なのか、そういった理由で参加していた。
尚、景子は1556年生まれでアラサーになっていたが、自分に見合う男がいないとして、独身のままでいる女傑でもあった。
因島村上家からも当主の村上吉充が参加しており、来島村上家からも当主の村上通総が参加するという三島村上水軍衆の当主揃い踏みといってよい状況にまでなっている。
織田信房にしてみれば、三島村上水軍衆が海外交易に参画して儲けたい、と言う理由からのことなのだろう、と頭の中では分かっていたが。
それにしても、羽柴秀吉の声望から三島村上水軍衆の当主揃い踏みとは、と考えてしまう事態だった。
ご感想等をお待ちしています。