第8話
さて、こんなことがあって少し後、私は石川数正から諸国情勢を聞く講義があった際に、数正に密かに相談を持ち掛けることになった。
「考え過ぎやもしれぬが、母の身辺に目を光らせてはくれぬか」
「何故ですか」
さしもの数正も、私の言葉に首を傾げた。
「身辺に目を光らせろとは、まさか築山殿が内通等の行為をされると疑っておられるので」
「いや、そうではない。私が気になるのは五徳の方だ」
「それなら監視先が違うのでは」
数正の私への声に疑念が深まった。
「五徳はそれなりの下仕えを気心が知れているからと連れて来た。だが、その中に」
「それはありえますが」
私と数正は阿吽の呼吸でやり取りをした。
こうした場合、下仕えといいつつ、それなりの手練れの諜者、忍びが紛れていておかしくはない。
自分がした結婚は、所詮は政略結婚だ。
政略が絡まる以上、下仕えと言う形で忍びを紛れ込ませるのが当然ともいえる。
「そして、父に不満を持ちつつ、かといって帰るところもない以上、私の母であることを理由に、母は岡崎城近くに住んでいる。だが、こうした状況は疑おうと考えれば、極めて怪しく見えて当然だ。母が今川家中に通じているやもしれぬ。更に言えば」
私は敢えて、それ以上は言わなかった。
五徳はともかく、その傍にいる誰かが母を陥れ、更には松平家に危害を及ぼす危険がある。
そう数正に示唆したのだ。
実際に母にしてみれば、五徳は色々な意味で疫病神だ。
更に五徳の側も、母が自分をそう見ていると推測している。
ある意味では極めて危険な嫁姑関係に二人はあり、それに乗じるモノがいて当然なのだ。
数正も明敏な頭脳で、私の言いたいことを口に出さずに察してくれた。
「確かに奥(五徳)の周囲に目を配るよりも、その方が無難でしょうな。主(家康)も了とするでしょう。実際にそろそろのようですし」
「そうか」
先年、1565年に甲信を抑えていると言っても過言では無い武田信玄が、嫡男の義信を幽閉するという大事件が起きた。
その背景には武田家が越後の上杉家との対立を止めて、今川家攻めを企んだためだという風聞が流れており、実際に武田家はそのための準備をしつつあるらしい。
そして、今川家側もそれを察して、北条家と連携して対抗しようとしているとか。
私の理解に誤りが無ければになるが。
この辺り、今川氏真が猜疑心が強すぎるのが悪い方向に転がっている気が、私はしてならない。
数正らに教えられたが、大勢力の境目の国衆は両属がそうおかしくはなく、その上で様々な勢力が物事を考えるのが、この時代では当然なのだ。
だが、氏真はいわゆる敵か味方か、で物事を全て判断してしまう。
私の前世の21世紀になっても、中立や傍観は許されない、味方にならねば敵なのだ、という主張をする人がそれなりどころではなくいたことを考えれば、この16世紀ならば、尚更に氏真の考えはおかしくない考えなのかもしれない。
だが、この考えが氏真を完全に悪い方に流れさせている気が、私はしている。
武田家が今川家との手切れ、同盟破棄を考え出した発端は、私の知る限りだが、武田家と織田家との東美濃における国境交渉について、氏真が武田家は私の父の仇である織田家と同盟交渉をしているのか、と難癖を付けたことかららしい。
ある意味では、私の父が今川家から離反した発端と一緒で、氏真の猜疑心が、味方を敵に奔らせる事態を引き起こしているのだ。
武田家にしてみれば、織田家との間で東美濃の国境を安定させねば、越後の上杉家に対処できないのに、今川家はそれに難癖を付けるのか、今川家はどちらの味方なのだ、と怒らせる事態になったとか。
私はこういった状況に、色々と考えざるを得なかった。
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