第79話
モルッカ諸島は、この16世紀後半においては文字通りの宝島だった。
この時代の主な香辛料と言えば、シナモン、コショウ、ニクズク、ナツメグといったところだが、この当時において、シナモンやコショウはともかく、ニクズクやナツメグを生産しているのは、モルッカ諸島だけといっても大袈裟では無いのが現実だった。
他の二つ、シナモンやコショウの生産地にしても、日本の勢力圏下にかなりの部分が置かれていた。
こうした背景に加えて、中国産の絹や陶磁器、日本産の漆器も奢侈品に近い代物だったが、アジア方面からの欧州方面への輸出品となった。
こういった商品を背景にして、日本はインド洋から紅海を介して、エジプトへ更に欧州へと交易路を確保しようと考えたのだが。
このルートを使うとなると、当然のことながら、オスマン帝国との友好関係は必要不可欠になる。
オスマン帝国もインド洋交易が莫大な利潤を自国にもたらすものであることは、それなり以上に分かっており、紅海からインド洋への玄関口といえるアデンにはかなりの艦隊を展開して、紅海及びその周辺の制海権確保に努めていた。
又、ポルトガルの脅威にさらされていたアチェ王国の求めに応じて銃砲の提供を行う等、インド洋に面したスンニ派イスラム教諸国に対して、同じスンニ派イスラム教国の誼と対キリスト教諸国(具体的にはポルトガル、スペイン)対策として軍事支援等を行っても来たのだ。
そして、この交易路には東アフリカ方面から東アジア方面に運ばれて売られる品物があった。
象牙や犀の角、更には黄金といった品々である。
アジア方面から欧州方面に香辛料を運び、帰りには象牙等を持ち帰る。
又、この航路は東南アジア方面のイスラム教徒が、メッカへの巡礼を行うのに使う路程でもあった。
こういった人の移動もまた、日本の商船にしてみれば金儲けの手段の一つになった。
ともかく、こうした航路を維持するためにも、オスマン帝国との友好関係を確立させる必要が日本にはあり、既にオスマン帝国との友好関係を確立していたアチェ王国を主に介して、日本は使節団をオスマン帝国に派遣することになった。
これについて、実務を主に担うのは羽柴秀吉、及びその家臣団になったが、そうは言っても、羽柴秀吉は織田家の家臣、つまりは朝廷や幕府からすれば陪臣に過ぎない。
更に官位にしても従五位下であり、オスマン帝国という大国の使節団長を務めるのには官位が低いという問題が起きるのは避けられない話だった。
となると、摂家なり、清華家なりの公家を送るか、足利家から誰かを、オスマン帝国の使節団長として送るのが相当ということになるが、この当時の日本にしてみれば、明でさえも遥かな異国なのに、それよりも更に遠いオスマン帝国へ赴こうとする公家や足利家の面々がいる訳が無かった。
こうしたことから、散々に揉めた末に、最初は織田信忠の弟で、羽柴秀吉の養子になっている羽柴秀勝が使節団長に選ばれていたが、病に臥せったために、更にその兄弟になる織田信房が使節団長になることになった。
織田信房にしても、1570年代前半の生まれであって若すぎると言うのは否めない話だったが、織田信雄や織田信孝は羽柴秀吉と微妙に仲が悪く、羽柴秀吉が使節団の実務を担うのを嫌がったので、結局のところ、織田信房にお鉢が回らざるを得なくなったのが現実だった。
ともかく、こうした紆余曲折の末に織田信房は従三位、参議に任ぜられて、オスマン帝国への大使として赴くことになったのだ。
尚、これは織田信雄や信孝といった兄を越えての叙位で二人は不平を零したが、信忠にそれなら羽柴秀吉と仲良くしろ、と叱責されて矛を収めるしかなかった。
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尚、次話からは織田信房視点の話、事実上は外伝が暫く続きます。