第78話
だが、中南米にいるスペイン人達が、カリフォルニアを日本人が植民地化しつつあるというのを知るのは、1599年から1600年に掛けてのことで、今、述べるのには余りにも先走った話になる。
それ以前から、日本はオスマン帝国を始めとするインド洋沿岸諸国との交易関係を基本とする友好関係の確立に乗り出さざるを得なかった。
1580年代末には、ポルトガル領マラッカをジョホール王国と共闘することで、日本は完全に潰すことに成功していた。
ジョホール王国はマラッカ王国として復興したのだ。
尚、実際に行ったのは、武田家の面々と言っても、そう間違いなかった。
マラッカからマカオに赴くポルトガル船は、行きがけの駄賃では無いが、南シナ海を航海する日本の商船に対する海賊行為を常習的に行っていたのだ。
この被害に怒った武田家の面々が、日本本国政府、朝廷や幕府にポルトガル船による被害を訴え、更にポルトガル船が南シナ海に出没できないようにしようと、マラッカ攻略に赴こうとしたのだ。
そして、この武田家の行動に賛成した私と言うか、徳川家の面々や上杉家の面々等も共に、ポルトガル領マラッカの攻略に協力することになった。
とはいえ、その主力を構成したのは完全に武田家の軍勢と言えた。
又、フィリピンという経由地はあるとはいえ、台湾からマラッカを攻略しようとするのは、少なからず遠いのが現実である。
こうしたことから、朝廷や幕府の了解を得て、ジョホール王国との共闘関係を確立した上で、武田家を主力とする日本の軍勢はマラッカ攻略を果たすことになった。
そして、マラッカがジョホール王国の首都として再興される一方で、シンガポール島を日本はインド洋を睨む軍事や経済上の拠点として、ジョホール王国改めマラッカ王国から割譲されて、整備を進めることになったのだ。
更にこういった出来事は、ポルトガル領マカオの立ち枯れを招いた。
マニラが日本領となり、マラッカが失われたことで、マカオに到達するスペインやポルトガルの船は存在しない、と言っても過言でなくなり、マカオのポルトガル人はそれこそ現地に同化して生きていくしかない状況に追い込まれたのだ。
そして、16世紀末にはポルトガル領マカオは滅亡したと言っても、あながち間違いなかったのだ。
こういった国際情勢の大変動から、日本からの要請というより圧力もあって、スマトラ島のアチェ王国は復興したマラッカ王国と友好関係を締結することになっていた。
これによって、南シナ海周辺は、日本にとっては我らの海と言えるようになったと言える。
更に言えば、この1580年代末の時点で、徳川家等の支援により、モルッカ諸島は織田家がほぼ領有化を果たす等、台湾からフィリピン諸島のみならず、私の知識で言えばインドネシアの地域にまで、日本各地の主に西国の大名家が支援することで、日本は安定した交易拠点を築き、更にその後背地の領土化を徐々に進めていた。
又、インドシナやシャム、ビルマといった東南アジアの大陸地域でも、交易拠点といえる日本人町を現地の国々の了解を得て建設、獲得している現実があった。
こういった背景事情が、私が主導する日本は積極的に海外に侵出すべきという面々が、日本政府の主軸を成す事態を引き起こしていたのだ。
とはいえ、更にインド洋方面に日本が侵出するとなると、インド洋方面で日本は友好国を獲得して、又、交易拠点を築かねばならないのも現実的な問題になっていた。
こうしたことが、オスマン帝国を筆頭とするインド洋の国々と友好関係を結ぼうと、日本政府が画策する事態を引き起こすことになっていた。
そして、日本は香辛料という有力な商品を持っていたのだ。
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