第77話
幕間というか、背景説明話になりますが。
こういった辺りの説明を省くと、メッセージを寄せられ、感想欄が荒れるモノで。
どうか緩く見て下さることを平にお願いします。
そんなことはないだろう、と言われる方もおられますが、それこそ10年近く「なろう」で投稿していると、本当に筆を折りたくなる程に執拗に攻撃された実体験が、私にはあります。
あの時は、本当に「なろう」からの完全退会をしたい、とまで私は考えました、
それこそ1日に複数のメッセージが届いて、返答できないならば、「なろう」をすぐに退会して、ネット小説投稿を完全に止めろ、とまで追い込まれました。
そういった実体験から、ということで平にお願いします。
尚、喜望峰周辺の植民地化にしても、十万人を越える植民地にするとなると、1590年代半ばにまで掛かる事態になるのは止むを得ないことで、それこそ島津義弘を中心として植民活動を行う一方で、人口を少しでも増やそうと、現地で生活している狩猟採集民族の同化までもが図られる事態となった。
尚、こうなったのは、この当時の喜望峰周辺には農牧業を行う現地の住民がいなかったという現実があったのも大きかった。
アフリカ大陸の中心部は言うまでもなく熱帯気候である。
そして、アフリカ大陸においては、熱帯気候に適した農作物が南北に拡大して栽培されていて、具体的にはモロコシ(コーリャン、ソルガム)やアフリカ稲といった穀類や、ヤムイモやタロイモといったイモ類が農民の間で栽培されてきたのだが、こういった穀類やイモ類は、喜望峰周辺が温帯気候であることから、マトモに育たない事態が引き起こされていたのだ。
勿論、温帯気候に適した麦や稲等の穀類やジャガイモやサツマイモといったイモ類が、喜望峰周辺に予めもたらされていれば、状況は変わっていただろうが。
喜望峰周辺にまでそういった穀類やイモ類の知識を持って、更に栽培を試みようとする人達が、航海の果てにたどり着くような事態が16世紀のこの頃まで起きていなかったことから、喜望峰周辺にいる現地の住民は農牧業を知らずに、狩猟採集で生活していたと言っても過言では無い状況にあったのだ。
そして、そこに日本人は様々な穀類やイモ類を持ち込んで農地を開拓、拡大していき、植民地化を図る事態が起きたのだ。
当然のことながら、現地の住民は反発することになるし、更に厄介なことに農牧業を彼らは営んでいなかったので、日本人のように自分の土地という概念が無かったので、尚更に難儀なことになった。
何しろ日本人が農地を開拓するために、土地を占有しようとすると、何故に土地を占有するのか、土地は誰のモノでもない、として攻撃してくる現地の住民が稀では無かった。
交渉で土地を獲得しようにも、土地の占有という概念が理解されないのだから、どうにもならない。
それこそ弓矢の沙汰で、現地の住民を一部は追い払い、一部は服属させて半強制的に農民にし、それで喜望峰周辺の開拓は進められることになった。
この点では、カリフォルニアに植民活動をした私達の方が、ややマシだった。
カリフォルニアの現地の住民達は、全く農業を知らなかった訳ではなかったからだ。
とはいえ、トウモロコシの栽培でさえ余り知られていたとはいえず、それこそ現地の食用の草木を育てて、ドングリ等を採集して食用に加工してといった程度ではあったが、農業を知っていて、そのために自分の土地という概念が、多くの現地の住民の間で知られていたので、土地を巡る争いが余り深刻化せずに済んだのだ。
そうは言っても、植民地として開発するために、農地を開拓するとなると、現地の住民からの反発を受けるのは止むを得ないことで。
私達は出来る限りは、現地の住民に対して直接の攻撃を避けようとし、更に仏教を布教することで宗教面でも日本人とは同じ宗教を信じる仲間だ、という意識を広げようともした。
それで、少しでも現地の住民との紛争を減らそうとしたのだ。
尚、同じことが喜望峰周辺でも行われた。
更に言えば、この布教活動には本願寺門徒や法華宗徒、他に禅宗や真言律宗までが参加することになり、大乗仏教が改めて世界に広まる発端になった。
一部の熱心な僧侶の中には一人または少数で、現地の住民の下に赴いて布教活動を行おうとする者まで現れた。
これによって植民地化は徐々に進んだが、それはメキシコにまで噂が流れることにもなったのだ。
ご感想等をお待ちしています。