第76話
さて、実際に喜望峰周辺やカリフォルニアに、日本人の入植活動が始まったとはいえ、それなりに訳アリと言うか、ある程度は強いられた植民活動が行われるのは止むを得ないことになった。
これは当たり前といえば、当たり前の話で。
そもそも日本本国から離れて植民地の開拓活動を行うのを、誰が積極的に行うのか、という問題が絡んでくる話になる。
普通に考える程に植民地の開拓活動が労多くして報いが少ない話になるのが、自明の理である以上は多くの日本人が、植民地の開拓活動に消極的になるのが当たり前の話になるのだ。
こうしたことから、喜望峰周辺の日本の植民地開拓活動については、それこそ天正遣欧少年使節団の一件から、祖国日本を売ったと見られている大友氏や有馬氏、大村氏といった面々が日本からの追放処分の一環として赴くことになった。
更に言えば、大友氏等を監督するために、島津氏等も喜望峰周辺に派遣されることになった。
こうしたことから、喜望峰周辺の日本の植民地活動を主導するのは、九州出身者が多数を占める事態が後々まで生じることになったのだ。
そして、カリフォルニアへの入植活動については、私というか、徳川家が主導することになった。
何故かと言うと、これまた、中南米にスペインの勢力が及んでいることから、危険性が極めて高い一方で、見返りが乏しい植民活動になると、多くの日本人が考えたからだ。
こうしたことから、いや、実際には多大な利益が見込める話だ、というのを日本の国内外に示すために、私というか、徳川家が積極的にカリフォルニアへと向かう事態が起きたのだ。
とはいえ、私の本音では、カリフォルニアへの入植活動は、それなりどころではないリスクがある活動に他ならなかった。
何しろ、カリフォルニアの気候は、当然のことながら、温帯とはいえど、日本とは大きく違うという現実があるからだ。
こうしたことから、私はそれこそ倭寇等を介した様々な裏を介して、例えば、羊をモンゴル等から輸入し、更に牧羊を順調に行うために、牧羊犬等を購入して、その扱い方をモンゴル等から招いて学ぶという、それこそ泥縄を行わざるを得ない事態が起きた。
他にも、羊以外にも様々な農産物の栽培法について、現代流に言えば、マニュアル化を図って、日本からカリフォルニアに移民して、農業を行おうとする面々が、順調に農業を行えるように配慮せざるを得ない事態が起きるのが必然としか言いようが無かった。
そして、実際に数百人規模の探検団を現地に配置して、その探検団は現地で狩猟採集活動を積極的に行う一方で、現地民と積極的な交流を図る等の行動を行うことで、その地の気候等を十二分に把握するように努めることを行う等のことができたことから、カリフォルニアの植民活動が、徳川家が主導することで最終的には順調に進む事態が起きたのだ。
尚、同じようなことが、喜望峰周辺でも起きることになった。
それこそ日本と同様には雨こそ降らないものの、それなりに温暖な気候であることが、現地住民の協力等も得て、日本からの植民者にとって喜望峰周辺で分かったことから、島津家を中心とする日本の植民者は、それなりどころではない苦労を強いられたが、何とか喜望峰周辺を日本の植民地にすることに成功することになったのだ。
とはいえ、実際に日本の植民地を、喜望峰周辺やカリフォルニアで拡大することになると、一筋縄ではいかない事態が引き起こされるのは、当然のこととしか言いようが無かった。
私としては、速やかにカリフォルニアを十万人を超える人口を持つ土地にしようと努力したが、そこに至るのには1590年代半ばまでの時間が掛かるのは、当然のことだった。
何故に十万人という数字に主人公が拘ったかというと、それだけの人口がいれば、いざと言う場合に1万の軍勢を住民から集めることができ、スペイン軍相手にそれなり以上に戦えるだろう、という目途が立つからです。
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