第74話
この辺り、黒田基樹氏を始めとする歴史家の著作、研究や主張をかなり参考にしています。
豊臣秀吉の子を淀殿しか産んでいない史実から、多くの人が秀吉には子種が無く、秀頼等は淀殿が浮気して産んだ子なのは間違いない、と言われますが。
黒田基樹氏を始めとする歴史家に言わせれば、当時の常識からすればおかしくない、とのことです。
この時代には正室が側室が子どもを産むのを認める権利を持っており、秀吉の子を産むのを淀殿にしか家格等の問題からお寧は認めていなかっただけ。
それなのに淀殿しか秀吉の子を産んでいないのはおかしい、というのは当時のことを知らない現代からの妄言とのことです。
私は黒田基樹氏等の歴史家に反論できるだけの知識が無く、それに従って描写することにしました。
そんな話し合いを徳川家の家臣団とした後、私は妻の五徳に対して、側室として茶々を迎えることの了解を求めた。
この時代では、側室を迎えるだけならば問題が少ないが、更に側室が子どもを産むのを認めるか否かの権限は正室が持っているのが現実である。
だからこそ、私の父の家康が秀康を黙って側室に産ませようとしたのに、私の母の築山殿は激怒する事態が引き起こされたのだし。
その後の父の側室の出産の件について、父が信康の女は妻の五徳しかおらず、更に五徳は健康な息子を産んでいないではないか、儂が信康の弟を増やさないと徳川家が絶える、という都合の良い言い訳をするのを、私の母の築山殿を始め、誰も面と向かっては否定できない現実があったのだ。
ともかく、五徳としても忸怩たるものを覚えざるを得なかったようだ。
自分としては、夫の跡取りとなる男児をまだ産みたいが。
自分自身、満12歳の頃から出産を繰り返しており、約18年間で12人も出産したために、色々な意味で自身の身体に負担が掛かり過ぎているのを痛感しており、これ以上の出産が困難なのを認めざるを得ない。
それに茶々は自分の従妹であり、茶々が私の側室になりたがる理由にしても、本当は表向きで実は側室でもよいから自分の夫の信康と結ばれたかったからではないか、と勘繰らざるを得ないが。
建前論にしても、茶々の異母兄の子(茶々から言えば甥)を武士にして、浅井家の再興を成し遂げたいという理由、理屈を無下にもしづらいのが現実である。
そうしたことから、実際には渋々ではあったが、茶々を私の側室にして、子どもを産むことまでも五徳は認めることになったが、一つだけ注文を付けた。
「息子が産まれたら、私が手元で育てます。これは譲れません」
「分かった」
五徳は、その一線だけは絶対に譲らない態度を私に示して、私も了解した。
要するに私と茶々の間に息子が産まれたら、その養母に自分が成る、と五徳は言い張ったのだ。
茶々は嫌がるだろうが、私にしても、史実を思い起こす限り、茶々の子育てには一抹以上の不安を覚えざるを得ない。
それに対して、五徳は10人以上も子どもを産み育てた実績がある。
それを考えると、私も五徳の主張に同意することになった。
さて、五徳が何故にそこまで拘ったかと言うと、私が存命の間はともかく、私が先に亡くなった場合に、私と茶々の息子と茶々が手を組んで、自分が押し込められる危険を覚えたからだ。
そうしたことから、茶々の息子は自分が育てる、と五徳は言い張ったのだ。
そんなゴタゴタまであった末に、1588年の秋に茶々は私の側室になったが。
日本の今後の大戦略に関する話は、それなり以上の大事になった。
徳川家の家中は、私の説得によって、私の考えで基本的にまとまったのだが。
それ以外のところ、具体的には朝廷や幕府の内部では、それこそ甲論乙駁の議論が交わされて、
「議論は行われるが、結論には進まない」
と揶揄されるような事態が多発することになった。
実際問題として、朝廷の公家の面々も、幕府の官僚と言える奉行衆達や幹部と言える大名衆達にしても、対欧州戦争を見据えた日本の国家戦略を立てて、日本が行動せねばならないのは皆が分かっていると言っても過言では無いのだ。
問題は、どのように行動するかで、その点について、議論がまとまらないことになった。
それこそ消極派の面々の多くが、出来る限り日本の周辺地域に日本は引き籠り、貿易は管理貿易体制を敷くことで、日本からの金銀の流出を防いで、欧州諸国が攻めてきたら、それを返り討ちにしていけばよいことだ、と主張した。
実際、それはそれで筋が通った主張だと言えなくもない理屈だったのだ。
最後の辺りが少しわかりにくいので、補足します。
消極派としては、それこそ東南アジア辺りに拠点を築いて、そこを防衛していけば充分、主人公が考えるように他の大陸、喜望峰周辺やカリフォルニアまで、日本が手を出すことはない、と考えているのです。
実際、植民地開発費用等を考えると、これはこれで合理的な考えなのです。
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