第66話
ともかく、こういったてん末の末にマニラは攻略されて、更にマニラ以外のルソン島を中心とするフィリピンのスペイン人の拠点も、徳川軍と上杉軍が手分けして制圧していくことで、結果的に全てが自分達というか、日本の手に入ることになった。
更にこの結果から、当時のスペインが統治していたマニラ周辺及びフィリピン諸島において、その統治下にあったスペイン人以外の現地人の多くは、こういった現状に鑑みて新たに日本というか、我々の統治に服する路を選んだ。
とはいえ、それはあくまでも私達の武威の前に戦っても無駄、と彼らが考えたからに過ぎない。
それなりの統治体制を築くとなると、一筋縄ではどうにもならず、私は改めて義兄になる織田信忠に口添えまでしてもらい、石川数正等の徳川家の吏僚を呼び寄せることになった。
何故にそこまでのことになったか、というと。
結局のところはマニラ攻略作戦について、細かいことを言えば、足利幕府が徳川家に命じたことなのだが、徳川家の当主は未だに私の父の家康である。
そして、父としてみれば、マニラ攻略といった日本本国外への派兵等はトンデモナイことである。
とはいえ、足利幕府の命令を徳川家と言うか、父にしてみれば拒む訳には行かず、この件を私に丸投げするという事態になったが、そうは言っても、マニラを攻略すれば、すぐに還って来い、と父は私に暗に意図を秘めて、私の配下に武人系の者ばかりを付けたのだ。
更に、この件で私が父にそれとなく意見すれば、徳川家の当主は儂である以上、お前の配下を決める権限は儂にある、と反論して、私の意見に耳を塞いだ次第だった。
そして、徳川家中をそう混乱させる訳には行かない以上、私は渋々、武人系の者ばかりを率いて、マニラ攻略を行うことになったが。
私の予想通り、吏僚系の者がどうにも足りない事態となり、とはいえ、父に私から直に言っても、これまでの行き掛かりから、私の言葉を父が聞く筈もないことから、義兄の織田信忠に口添えをしてもらうことになったのだ。
そして、足利幕府の管領である織田信忠の口添えがあっては、流石に父も拒み切れず、石川数正らが私の下に駆けつけてくれることになった。
だが、こういったやり取りだけで、半年以上を結果的に空費することになり、石川数正らが私の下に来るのも遅れることになった。
更には、このような別居生活にやきもきした余り、武田信勝に嫁いだ福子以外の娘全員を引き連れて、五徳は私の下に押しかけて来た。
それこそフィリピンで側室、愛妾を私が作っているのでは、と五徳は勘繰ったらしい。
この辺りの行動力は、本当にあの織田信長の娘としか、言いようが無い。
それはともかく、私の正室が子ども連れで押しかけて来たのだ。
それこそ簡素な仮の館と言って良かった私の住まいも、警護の必要性が増大したことから、砦というよりも城に近い代物に必然的にせねばならず、これまた、一騒動になってしまう。
更には私を見習って、妻子を呼び寄せる者までが、それなりに出るようになった。
こうなると、これまた住居等の問題を引き起こすことになるし、それなり以上に現地のフィリピンの農地等の開発まで行わないと行けなくなり、従来からの住民との軋轢等が起きて、それを解決しないといけないということにもなる。
結果的に私の当初の見積もりでは、2年もあれば充分だろう、と考えていたマニラを始めとするフィリピンの日本の事実上の領土化だが、余りにも甘い考えだったようで、こういった想定外の問題までも引き起こされてしまったために、1588年まで私とその家族は日本本国に帰ることはできず、マニラ生まれの娘達まで連れての帰国になってしまった。
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