第63話
新発田重家は、第4次川中島の戦いにも参戦した上杉家の古強者である。
本人曰く、
「主の上杉景勝殿に嫌われて、高山国(台湾)で一旗揚げるしかない、と考えて赴いただけのこと」
と自らを卑下するが。
「数え15歳の身で、武田家と上杉家の総力戦と言える(第4次の)川中島で戦い、飯富虎昌と並び称されていた武田軍の名将の諸角虎光を討ち取られた武功、是非ともその際の話を直に新発田殿に伺いたいものです」
と本多忠勝や榊原康政らは、新発田重家を称賛する言葉を発する有様で、更には私にまで、
「新発田重家殿が率いる上杉勢二千の援けは、我が軍にとって1万の増援を得たに等しいですぞ」
と言う有様だった。
実際にその言葉に違わぬ猛将、名将なのを新発田重家はマニラ攻略で示した。
リンガエン湾に我が軍が上陸し、マニラ攻略に当たるという基本方針を新発田重家は受け入れたが、その一方で、放胆極まりない案を私達に示した。
「マニラ湾封鎖の任には、私自らが率いる上杉軍が当たりましょう」
事も無げに新発田重家は、私の率いる徳川軍の面々に言ってのけたのだ。
「しかし、海の戦いになりますぞ。上杉軍は海の戦いに慣れておられるのですか」
私が率いる徳川家の面々の中で水軍衆の総帥を占める小浜景隆は、その言葉に難色を示したが。
「越後はそれこそ青苧の産地で京を中心とする畿内に売り込んで儲けていました。ところが、一向一揆との戦いで加賀や越中を介する京への陸路が寸断された結果、海を介して越前や若狭へと青苧を送り、それで畿内に売り込まざるを得なくなったのです。その結果、海に慣れた者が越後で育つことになりました。小浜景隆殿には劣るやもしれませぬが、上杉家の面々は決して海を知らぬ者ではありませんぞ」
新発田重家は、淡々と事実を述べるかのように言ってのけた。
実際に上杉家の船は、様々な経路から情報を得て改善されているのだろう。
我が徳川水軍に大きく見劣りしないジャンク船を揃えており、大砲や鉄砲も装備している。
勿論、純粋な軍艦とは言い難いが、そうは言っても時代が時代だ。
単純な輸送船とは、とても言えない代物で、武装した輸送船としか言いようが無く、私が見る限りだが、このマニラ攻略作戦に投入された徳川家の軍艦と1対2になれば、上杉家の船は優勢に戦えるのではないか、と言われそうな武装が施されている。
更に新発田重家の令名もあることからすれば。
「よろしいでしょう。新発田殿を信じましょう。マニラ湾封鎖の任を上杉軍にはお願いしたい」
私は最終的にそのような決断を下した。
それに、と私は頭の中で考えた。
マニラ湾内の警備任務の為にガレアス船を、スペインは選択したのだろう。
実際問題として、内海では朝夕においてベタ凪になることが多く、純粋な帆船では。その時間帯の警備を行う際に、機動性等に問題が生じてしまう。
それに対して、ガレー船と帆船の合いの子といえるガレアス船ならば、砲力もそれなり以上にあるし、ベタ凪のさいでもガレー船として戦うことが出来る。
更に言えば、これまでスペインは日本軍のマニラ侵攻作戦の脅威を本格的に検討していなかった。
精々が、倭寇の一部がマニラを掠奪目的で襲撃するかもしれぬという前提で、マニラの防衛体制を検討していただけのようだ。
もし、日本軍のマニラ侵攻という危険を本格的にスペインが考えていたなら、こんな中途半端な防衛体制を築かなかった筈だ。
日本軍の侵攻に予め備えようと、最低でも1万程の軍勢をマニラに展開していた筈だ。
(最もこの当時のスペイン軍の規模からして、それだけの兵力をマニラに展開する位ならば、マニラを放棄していた可能性が高い)
そんなことを私は考えた。
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