第52話
そんな背景が裏ではあったことから、史実と異なって1580年まで江戸において、無事に私は生き延びることに成功していた。
更に言えば、父の家康の方策が(既述のように)私の家庭的には良い方向に転がっていた。
結果的に私の母の築山殿が岡崎に残されたことは嫁姑の別居ということになり、私の妻の五徳からすれば、姑からの嫁いびりの心配がなくなったことにつながっていた。
又、相変わらず五徳の(失礼な言い方だが)女腹は相変わらずで、私との7人目の子どもまで全て女の子というある意味では惨状を呈しており、本多正信を始めとする主な徳川家の家臣どころか、とうとう私からすれば義兄になる織田信忠殿までが、
「この際、側室を娶られては如何か。流石にこれ以上、(五徳が)子どもを産んだとして、丈夫な男の子が無事に産まれるとは思えぬ。徳川家の跡取りが必要であろう」
という有様になっていた。
(時代的な問題から、そんなに正確に分かっていた訳ではありませんが。
経験的にお産を繰り返すことは母体に負担を掛け、又、徐々に高齢出産になることから、後から産まれた子程、弱くなりがちなのが、この時代でも経験的に分かっていたようです)
だが、私はそんなに自分の実子を持つことに拘りが無かったので、
「私には母違いとはいえ、弟が二人おりますし。又、娘婿に徳川家を継がせればよいことですし」
と韜晦するように義兄に言い、家臣等にも、
「私には母違いとはいえ弟がいるではないか。何だったら、娘婿を養子にしても良い」
と公言していた。
そして、このことは五徳を私にしがみつかせることになった。
何しろ夫の家臣や姑どころか、自分の兄の信忠までもが夫に側室を勧める有様なのだ。
それなのに夫は自分を庇って、側室を迎えぬと言う。
ここで夫の機嫌を損ねては、という打算が皆無だった訳では無いが、五徳にしてみれば、今となっては夫、私にしがみつくしかない、という想いがする現状になっていたのだ。
ともかく、こうしたことから1580年現在において、私は妻の五徳、及び7人の娘と仲の良い家庭を築いていて、間もなく長女の亀を武田勝頼の嫡男の武王丸(信勝)に嫁がせる時が近づいていた。
だが、その一方で、西国情勢が一段落しつつあるという情報は、私の脳裏でそれなりに咀嚼されることにもなっていた。
恐らくは後2年、1582年には足利幕府の勢威は九州全土にまで及ぶだろう。
一昨年の1578年に島津家と大友家が、日向(の耳川)において戦い、島津家が大勝利を収めたという情報が私にまで届いている。
そのために、大友家の傘下にいた多くの国衆が、これまでのキリスト教を庇護していた大友家への憤懣も相まって、相次いで弱体化した大友家に叛乱を起こしており、特に肥前の竜造寺家は肥前一国を制圧して筑前や筑後、更には肥後にまで勢力を伸ばしつつあるとか。
本当に一昨年まで、大友家が九州の殆どを制していたといっても過言では無かったのが、嘘のように状況が急変しつつある。
だが、その一方で大友家の弱体化によって、九州が大友、竜造寺、島津の3つの大勢力が合従連衡して相争うような状況になったというのは、足利幕府にとって好都合と言えることでもあった。
3つの大勢力の利害を調整して、1つが従わねば他の2つに味方するように呼び掛けて、という政治工作がやりやすくなったということだからだ。
それらを考え合わせれば、九州に足利幕府の勢威が及ぶのは時間の問題なのは間違いない。
後2年もすれば、日本は足利幕府の下でまとまるだろう。
その後は本格的に日本は南進することになるのでは、まさか大東亜共栄圏を自分が推進することになるとは、そんな考えが浮かんだ。
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