第51話
だが、この徳川家の家督問題についての私の態度だが、実は完全に擬態だった。
この方が周囲の織田信忠や武田勝頼を始めとする周囲の関心を煽り、私に対する同情が集まるとの考えから、私はそのような態度を執っていたのだ。
実際、私が詳細を知らない話になるが、私の父の家康と本多正信は、以下のような会話を当時は交わす羽目になっていたらしい。
「正信、信康に何か失策は無いか」
「正直に言って、目につくようなものはありませぬ」
「無いのなら造ることはできぬか」
「どうやって造るのですか。内政に関しては私がほぼ任されています。内政でしたら、私が責めを負って腹を切ることになりかねませぬ」
「それならば、内政では無く、周囲との交渉の件で難癖を付けられぬか」
「武田勝頼殿とは高山国(台湾)開発の一件から信康殿は昵懇の間柄と言って良く、そんなことをすれば武田家と気まずいでは済まない関係になります。上杉家や佐竹家を始めとする他の東国諸衆と我が徳川家との関係も大同小異です」
家康の言葉を、正信は冷静にいなした。
「それならば、織田家を始めとする西国との関係で何とかならぬか」
「石山本願寺が退去した後、石山が京の外港的な立場になり、堺の商人の一部までが石山に魅力を感じて移りつつあると聞き及びます。それを織田家も奨励しており、更には外洋に織田家も乗り出そうとしていて、信康殿はそれを聞いて、義兄の信忠殿の為にと様々な援助をしております。それに妻の五徳殿との仲も信康殿は良く、私が娘ばかりでは徳川家の将来が不安です、とそれとなく諫めるようなことを言えば、私には弟がいるではないか、と返される有様。それを聞いて、五徳殿はますます信康殿にしがみつかれています。こんな状況で、信康殿に難癖を付けては、織田家の怒りを買うのは必定です。織田家に加えて、武田家を始めとする東国衆の怒りまでも買っては、足利幕府はそれこそ(家康)殿の押し込め(強制隠居)を徳川家に命じるでしょう。それを甘受されますか」
家康の言葉に対して、更に冷静に正信はいなす言葉を吐いた。
その一方で、正信はその怜悧な頭脳で、この家康と信康父子の相剋の原因を察していた。
結局のところ、父としては息子が無欲すぎるのが、却って不安でならないのだ。
無欲かつ有能ということで、息子に対して徳川家内外から人望が集まっており、もし、父に対して息子が刃を向ければ、徳川家内外が息子に味方するのでは、と危惧を覚えてならないのだ。
そこまで疑わなくとも、と自分は考えざるを得ないが、とはいえ、松平家の身内争いはそれなりどころでは済まない話で、親子兄弟でさえも油断のならない関係を築いてきた。
更に言えば、先年、水野信元殿が強引に隠居に追い込まれたが、その背景にあったのが、織田信長殿の横死に水野信元が関与していたとの疑惑で、それを煽ったのが殿、家康だった。
実際にあのときに水野信元の動きが怪しかったのは事実なので、余り庇う訳にもいかなかった。
更に言えば、この父子相剋には、日本の行く末に対する対立があるのが何とも言えない。
(家康)殿は日本を統一した後は、日本に引き籠れば良いではないか、と考えている。
それに対して、若殿(信康)は、日本を統一した後は世界に積極的に侵出すべきだ、と考えている。
他にも、例えば、税制にしても米納を基本にすべきという殿に対して、銭納から銀納、何れは金納を基本にすべきという若殿の対立。
このどちらが本当に正しいのか、今の自分には分かりかねるが。
少なくともイケイケドンドンといえる若殿の主張の方が、日本国内の主な勢力の間で受けが良い。
本多正信は、この父子相剋についてそう考えていたのだ。
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