第43話
小田原城攻防戦から約1年が経っており、徳川家の大砲は、織田家等へも伝えられて、徳川家のみならず、織田家等でも量産されるようになっているらしい。
更に言えば、小田原城の戦訓から予め大量の砲弾等を準備した上で、実戦に大砲は投入されるべきとの意見が多数派になりつつあるとか。
だが、その一方で大量の砲弾等を確保すること自体に、本願寺は苦慮する事態が起きている。
これについては、徳川家等も同様の筈だ、と下間頼廉らは主張しているが、それは極めて楽観的に、自分達と同様の境遇にあると頼廉らは考えているだけのようだ。
実際問題として、甲斐や常陸の金山から産出された金を活用することで、徳川家は大量の硝石を確保することに成功している。
又、武田家や佐竹家も余禄を十二分に謳歌していて、大砲や鉄砲を弾薬等も合わせて確保できるようになっていると自分は聞いている。
こうした状況を自分なりに考えれば考える程、今が完全に朝廷や幕府からの申し入れに応じて武装解除をする好機だと自分は考えざるを得ない。
更に言えば、万が一、織田家等が本願寺に言い掛かりをつけてきても、朝廷や幕府は本願寺門徒がそれなり以上の力を持っているのを十二分に承知している筈だ。
だから、朝廷や幕府の介入を図ることで、自分達は力を維持できるだろう。
それに武器は放棄しても、それなりの部隊を準備しておけば、武器を入手するだけで戦場で戦うことはできるのだ。
顕如はそこまでも考えており、自らがそのように説得することで、最終的には下間頼廉らは不承不承ではあったが、全面的な武装解除に応じると言う事態が起きた。
かくして、石山から本願寺は京へと引っ越す事態が起きた。
さて、何故に石山から京への本願寺の移動が求められたかだが。
それこそ石山本願寺という城塞を本願寺が保有したままというのは、本願寺が目に見える城塞という強大な武力を保有するのを認めることであり、朝廷や幕府にしてみれば、他の寺社も同じような主張を行うということで望ましくないという理由がまずはあった。
そして、他の理由として、石山の地をそれこそ京の都の海への玄関口として、大規模に整備したいという考えも織田家等に浮かんだのも一因だった。
実際問題として、淀川等を駆使することで、石山の地は京と容易につながることができ、石山を良港として整備することで、それこそ日本の国内外からの物資を石山に集めて京に運ぶことが出来ると考えられたのだ。
だが、この動きは足利幕府と西国の大名、勢力との間の緊張を必然的に高めることになった。
この1577年当時、佐久間信盛や羽柴秀吉らを中心とする面々によって丹波から丹後、但馬へ、又、摂津から播磨へと織田家の勢力は伸張していた。
そして、播磨や但馬を織田家の勢力はほぼ抑えつつあり、更なる侵出先として因幡や備前をうかがおうとしている現状があった。
尚、本来ならば、三好家も足利幕府再興に伴って勢力を再度、伸張させてもおかしくないが。
それこそ三好家の柱の一つである三好三人衆は生前の織田信長との戦いで落命等しており、更に家臣団の内紛が起きたり、足利義昭の挙兵に際して三好義継が同調して敗死したりしたこともあって、三好長治が事実上の三好家当主となり、阿波を本拠地とし、更に周辺の讃岐等の国衆を傘下に置いてはいたが、昔日の威勢には程遠い現実があった。
こうしたことから、三好家は阿波及び讃岐の地盤固めに汲々としている有様だったのだ。
更にそれを織田家は見透かし、松永久秀らを事実上は従属させる等、摂河泉の三好派の国衆を自らの傘下に置きつつあった。
寄らば大樹の陰というのが現実で、織田家は勢力を伸張していたのだ。
これで、1577年当時の本願寺、及び畿内の情勢等の説明を終えて、次話から主人公が再登場します。
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