第4話
そして、このような状況下で私は岡崎城下に住むことになったのだが。
自分の苦境は中々終わらなかった。
今川氏真と手切れ、交戦することになった以上は、父は西三河を抑え、更には東三河を自衛のためにも抑えようと戦わざるを得ない。
それに対して、今川氏真も東三河を確保して、更には西三河へと攻め寄せて、父を屈服させようとせざるを得ない状況になったのだ。
だが、そうした状況は更に錯綜する事態を招いた。
父が西三河を抑えようとしたことから、更にその為に寺社が持っていた不入特権(諸役を課すること、不正確な表現で言えば免税が認められており、及び検断使(逃亡した犯罪者を捕まえようとする者、保安官的な存在)等は入れないという特権)を侵害したことから、当時の西三河では大きな力を持っていた一向宗(浄土真宗本願寺派)信徒が、父に反旗を翻す事態が起きたのだ。
更に言えば、父の家臣の多く(と言っても過言では無い)が、一向宗側に立ってしまった。
その中には、本多正信といった父の重臣らまでもいると知った私は呆然とするしか無かった。
私の乏しい日本史の知識でも、本多正信は徳川家康の寵臣、重臣だった筈だ。
その本多正信が一向宗側に立ったとは、私が転生して来た為に歴史が早くも歪み出したのでは、とさえ私は考えてしまった。
(尚、私、主人公は気づかないことになるので、ここで付言しますが。
この辺りは主人公の完全な誤解で、史実でも本多正信は一向宗側に立ち、徳川家康に敵対しました。
ですが、それを知らないことから、主人公は更に歴史を歪ませることになります)
私は自分の為に歴史が早くも歪みつつあるのでは、と危惧したことから、駿府から岡崎に自分が赴く際に同行していた石川数正らにそれとなく話をし、少しでも本多正信を始めとする一向宗側に立った父の家臣団を助命するように言った。
実際、石川数正他にしても、家族、一族が同士討ちする事態が起きていたようで、父に対して今後は武器を向けないと約束するなら、父に刃を向けた一向宗門徒に対し、投降するならば命までは取らない、財産没収と三河からの追放程度で済ませるように、父に働きかけてくれた。
父は余りにも甘い処分ではないか、と難色を示したが、そうは言っても、この三河一向一揆は父にしてみれば、余りにも厳しい現実だった。
更に言えば、私には詳しい事情が分からないが、ほぼ同時に起きていた「遠州忩劇」(今川氏真に対して史実でも起きていた、遠江の多くの国衆が起こしていた叛乱)が無ければ、今川氏真軍が三河まで侵攻して来るやも、という状況だったことから。
父は最終的には、甘言を弄して三河にあった一向宗の寺院を武装解除した末に破却して、三河一国を一向宗禁教(尚、浄土宗や一向宗以外の浄土真宗の寺院は存続を認められたので、一向宗の寺院の多くが浄土宗や他の浄土真宗に転向することで地位を保った)の地にすると共に、本多正信を始めとする元家臣らを財産没収の上、三河から追放処分とすることで、この三河一向一揆のケジメを付けたのだ。
更には、こういった様々な事象が絡み合ったことから、1566年末頃までに、三河一国を父が確保する一方で、駿河、遠江の二国を今川氏真が確保することになった。
そういった状況に三河及びその周辺が変わっていく現状がある一方で、私はこの一件で密やかに奔走したことから、本多正信らに好意を向けられて、後々で彼らは私の為に骨を折ってくれることになった。
更に言えば、それと同時に自分なりに考えた、自分が「いい子」になるために様々に努力、行動したことが、後々で多くの松平(徳川)家の家臣団に好意を抱かれることにもなっていったのだ。
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