第37話
そんなことを私が岡崎城で考えていると、治罰の綸旨を受けて足利幕府が発した徳川と武田を主力とする連合軍は北条征伐のために動き出した。
武田軍は主力をもって甲斐から武蔵へ侵攻して滝山城等を攻め、一部をもって信濃から碓氷峠を越えて上野の国衆に参陣を呼び掛けて河越城等を攻めた。
佐竹家を中心とする東関東の国衆連合軍は江戸城等を主力が攻め、里見氏を主力とする別動隊は三浦半島への上陸作戦を行おうとし、この上陸作戦を阻止しようと、北条水軍の主力と房総水軍は何度かに亘って海戦を行うことになった。
北条軍は、徳川軍との主力決戦までの足止めをこういった諸城に対して期待していた。
だが、事前の情報収集によって、滝山城や河越城、江戸城等には質の悪い守備兵が籠っていることを知っていた連合軍は、軽く城攻めをした後は少数の看視兵を置いて、多くが小田原城を一路目指した。
これは北条軍にしてみれば、やや予想外だった。
北条軍としては、こういった城攻めに武田軍等が拘ると考えており、看視兵を置いて小田原城をひたすら武田軍等が目指すと余り考えていなかったのだ。
そのために小田原城に予め籠っている部隊は1万に満たなかったが、北条軍は徳川軍との主力決戦に勝利した後、主力を入城させれば良いと考えていた前提が崩れることになった。
それ故に北条軍は、小田原城を気にしながら伊豆での徳川軍との主力決戦に挑むことになった。
「酒井よ。北条軍は内輪揉めを起こしておるようじゃのう」
「物見の者の多くが、そう見立てております」
徳川家康と酒井忠次は、そのような会話を交わしていた。
「武田軍等がひたすら小田原城を目指している以上、小田原城への退却論が出るのは当然。だが、目の前の北条軍主力は約2万なのに対し、我が徳川軍は1万5千、この際に一戦を交えて勝利を収めた上で小田原城に向かうべき、という声が多数になるでしょう」
忠次は、そのように北条軍の内情を推測する言葉を吐き、それに家康は肯いた。
「敢えて興国寺城等に看視兵を置いて、我が兵を減らしたのは、それが狙いでしたか」
榊原康政が口を挟んできた。
「その通りよ。北条軍に内輪揉めを起こさせた上で、我が軍との決戦に挑ませる。北条軍としては攻撃を仕掛けざるを得ない。内輪揉めを終わらせて一刻も早く、小田原城に向かう必要があるからな。そして、我々には大量の鉄砲、弾薬がある。攻撃してきた北条軍を、それで粉砕してくれる」
家康は不敵に言った。
実際、徳川軍の鉄砲の数は2千挺に達している。
弾薬にしても後方の段列に預けてあるのも含めれば、1挺当たり100発が準備されている。
北条軍が10万の大軍と言えど、全員射殺できるだけの物量だった。
「徳川家は次代まで確実に安泰ですな。そこまで準備を整えられる和子様がおられるのですから」
平岩親吉が(悪気無しに)言うのを聞き、家康は(顔に出さずに)不機嫌になった。
家康にしてみれば、信康は有能すぎる後継ぎだった。
表向きは父の言うことを聞く良い子だが、その才能の底が見えない。
今は亡き織田信長殿が、
「儂の死後に息子らは信康の門前に馬を繋ぐだろう」
と評した程の有能さを長良川河畔の戦いからその後、実際に信康は示している。
自分が桶狭間の戦いで遭った以上の危機に遭いながら、武田信玄を相手に信康は切り抜けたのだ。
ほぼ同数の兵力を率いる信玄相手に、10代半ばの初陣の身でそれ程のことが出来るとは。
信康に野心は皆無のようだが、ここまで有能とあれば、徳川家中で何かあれば儂を押し込めて信康を新主君にという動きが起きる可能性は充分にある。
更に織田信忠や武田勝頼らも同調するだろう。
家康はそこまで考えていた。
本人が幾ら恭順しようとも、周囲が担ぎ上げる危険がある以上、家康としては信康を危険分子として警戒して殺すことを考えざるを得ないのです。
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