第36話
更に言えば、対北条戦の為に岡崎衆の殆どが動員されて、父の旗本衆ともされた。
父の挙げた理由だが、岡崎衆は対北条戦に慣れておらず、それよりも駿河や遠江の面々の方が対北条戦に慣れており、先手として頼りになるから、岡崎衆を旗本衆にしたとのことだったが。
このことは、私としては更に癇に障った。
父は私が力を持ちすぎるのを、警戒しているのではないか。
父は岡崎から浜松へと居城を移しており、駿河を武田家から譲られたことから、更に駿府を仮の居城にして、対北条戦の準備をしてきた。
もし、対北条戦に勝利したら、完全に駿府を居城にする、いや、思い切って関東に父は居城を移転するのでは、という噂が私の耳に届きつつある。
だが、このことは徳川家の本貫の地といえる三河、特に岡崎衆の間で不平を澱ませており、父が本貫の地である三河を軽んじている、という声が岡崎衆の間で高まりつつあるのだ。
更に一昨年、浜松城において父の侍女が私の弟(秀康)を懐妊した。
私の母の築山殿は激怒して、妊娠中の侍女を浜松城から追い出すように父に求めたが、私が懸命に両親の間を取り持ったので、何とか侍女は浜松城で弟を出産できて、父は弟を認知した。
だが、私の下に届いた噂に因れば、この当時は畜生腹として忌み嫌われる男の双子を侍女は産んだとのことで、侍女は浜松城から追い出されて、双子の片割れは表向きは捨て子ということで何処かの寺に入れられたらしい。
父としては、子ども二人を共に死産と取り繕うことまで考えたようだが、私の下には娘ばかり3人(今では娘が4人で、私に息子は未だにいない)が産まれている有様なので、万が一を考えて双子の一人を認知したとのことだ。
尚、私や母の下への父の(公式)説明によると、お産が難産で侍女がやつれてしまったので療養のために生家に侍女を下がらせたとのことだが。
それから1年以上も経つのに、未だに父がその侍女を浜松城に呼び戻さないことからすれば、噂が正しいのだろう、と私は考えている。
ともかく父にしてみれば、私の代わりになる息子がいるのだ。
そのことも岡崎衆の疑惑を掻き立てている。
私に何らかの因縁を付けて、父は私を廃嫡するのではないか。
そんな噂を流して、不満を持った岡崎衆の一部は、私と父の仲を裂こうとまでしているようだ。
そうしたことから、岡崎衆を未だに頼りにしていることを周囲にも示すためにも、北条攻めに際して父は自らの旗本を岡崎衆で固めたようだ。
私はそれに唯々諾々と従って、父の命令を重んじる態度を示して、岡崎衆にも父の命令に従うように改めて命じて、石川数正以下の面々はそれに従ったが。
私としては自分は意図していないのに、父と自分の周囲の関係が悪化していく現状に頭が痛かった。
そういったあれこれを考え合わせた末に、私は対北条戦が始まっても暫く動かないことにした。
父の命令に黙って従い、ともかく自分の意見は言わない。
小田原城を徳川、武田を主力とする連合軍が攻囲できるのが見込めるようになった段階で、小田原城攻めに試作した大砲を投入することを、水軍衆の意見として父に伝えよう。
その頃になれば、北条水軍も徳川と房総水軍の攻勢によって逼塞している筈で、水軍衆が更なる武功を求めてもおかしくない。
そして、父がその意見を受け入れてくれれば。
試作した青銅製大砲の威力を実戦で確認できるだろう。
何だかんだ言っても、実戦で威力を示すのと演習で威力を示すのとでは、周囲に対して与える印象が格段に違ってくる。
更に言えば、その相手が天下の名城と謳われる小田原城だ。
小田原城攻めに大砲が偉効を挙げたことが、日本の内外へと広まれば。
私はそこまで思わず考えていた。
ご感想等をお待ちしています。
(尚、秀康の双子の件ですが、あくまでもこの当時に忌み嫌われていたということであって、私は双子を差別等する意図は毛頭ありません。
時代に合わせた描写ということでお願いします。
更に言えば、秀康が双子という確実な証拠が史実にあるのか、無いのに小説で描くのが私の偏見の証、とまで言われそうですが、そんなことまで言い出したら、史実の逸話の殆どが確実な証拠が無く、作者の偏見による作り話にまで成る気がします。
実際、秀康が双子だったという逸話は、それなりに現代にまで伝わっています)