第35話
1576年春当時、北条家の領土は本領と言える相模、武蔵、伊豆に加えて、下総の大部分、駿河の河東地域、上野や下野、上総の一部にまで及んでいた。
こうした状況から、北条家が自国領防衛の為に総動員を掛けたこともあり、総兵力は約7万人に達していたが、問題はその内実だった。
それこそ北条家領内の老若の男を集められる限り、集めた代物であり、実際の戦力として考えられるのは、約4万以下と北条家内外は共に判断する状況だったのだ。
これに対する徳川軍は駿河、遠江、三河の総兵力を集めたモノであり約2万程だった。
武田軍にしても、甲斐や信濃を中心として約2万程の兵力を集めていた。
それに佐竹や里見、上総武田等の関東諸国の国衆が加わり、その兵力は約3万と見積もられた。
ここまで来れば、充分に10万を号する大軍となる。
更に兵に加えて武将の質まで考えれば、北条家の約2倍の大軍が北条家に攻め込む事態と言えた。
(長篠の戦いが無いので武田家の武将はほぼ健在であり、更に徳川家や佐竹家等の武将が加わるのだ)
こうしたことから、北条家内部では一撃講和論が唱えられることになった。
地勢等を勘案した上で、武田家や関東諸国の国衆の軍勢に対しては、河越城や滝山城、江戸城等の複数の拠点にて籠城戦を展開する。
尚、その守備兵は主に質の劣る将兵を宛てることにする。
その一方で、東海道から進軍して来る徳川家の軍勢には、伊豆の辺りで北条家が集めた精鋭の軍勢をぶつけることとし、徳川家の軍勢を打ち破って退却させる。
それによって、北条家を攻める連合軍の士気を下げ、小田原城を中心とする北条家の軍勢の機動防御を効果的に行い、北条家を攻めるのは困難であると連合軍に認識させて、最終的には、それなりの講和を幕府と結ぼうと北条家内部では考えたようだ。
確かに戦力が劣勢な側が考える戦略方針としては、極めて妥当なモノと私も評価するが。
問題は、朝廷や幕府の名の下に、北条家を攻める徳川や武田の連合軍側には、北条家と講和を結ぶつもりが皆無だったということだった。
更に徳川家の軍勢を、相対的に弱敵と北条家側は考えていたようだが。
上杉謙信や武田信玄に比較すれば流石に劣るかもしれないが、徳川家の軍勢の総大将の私の父の徳川家康にしても充分に名将と謳われる才能の持ち主だし、その下には酒井忠次や本多忠勝、榊原康政等の良将が揃っているのだ。
北条家は余りにも徳川家の軍勢の実力を甘く見ていたのだ。
尚、北条家が敢えて駿河東部を事実上は捨てて、伊豆の東海道沿いを決戦の地と定めたのは、徳川水軍の威勢があった。
北条水軍は、長年に亘って里見氏を中心とする房総水軍との戦いを行ってきた歴戦の水軍だが、それ故に自らの実力をよく認識している。
房総水軍に加え、勢力伸長の著しい徳川水軍との両面戦闘は、北条水軍の能力を超えるとして、主力は房総水軍に向けて江戸湾から相模沖の制海権確保を優先とし、伊豆の下田に一部を残して徳川水軍とは持久戦闘を北条水軍は展開することにした。
となると駿河東部から伊豆西部の太平洋沿岸は、徳川水軍に抑えられてしまう。
こうしたことから、北条家の一部、北条氏邦らは富士川決戦を主張したが、徳川水軍による後方遮断の危険が指摘されたことから、駿河東部は興国寺城を中心に一部の城に兵を置くのみに止めて、伊豆における徳川軍との決戦を北条家は志向することになった。
そして、私はこの北条家との戦に従軍したかったのだが。
父からお前には岡崎城の留守居を命じる、と言われてしまい、岡崎城で石川数正らと共に後方支援に当たることになった。
私は長良川河畔の武功に、父が嫉妬しているのでは、と思わず勘繰った。
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