第31話
人として赦される話ではない、という言葉が自分の頭を過ぎった。
五十歩百歩ではないか、とも自分は考えた。
だが、人を売り買いする、奴隷や年季奉公人を積極的に生み出すよりはマシだろう。
そういう考えを贖宥状として、自分は石川数正(及びその周辺)に提案した。
「この際、刀や鉄砲等を積極的に造って、外国の買いたい者に売り込んでいってはどうだろうか。そうすれば、我々の刀や鉄砲の質も買った者からの主張を聞くことによって向上するだろうし、それによって金銀の流出を防ぐこともできるのではないか」
(自分自身の考えに反吐を吐く想いさえしつつ)私は、そのように石川数正に提案したのだ。
それを聞いた石川数正(及びその周辺)は唸った。
「確かに刀や鉄砲等を積極的に売り込むのは、それなりに見込みがありそうですな。東南アジア等から帰ってきた面々も、赴いた先の各地では多くの戦争が起こっており、様々な国、勢力が優秀な武器を競って買い求めそうだと言っています」
「そうだろう。この際に積極的に武器を造って売ることを考えようではないか」
石川数正らの言葉を聞いた私は更に唆すように言った。
「それから日本から人を売るのはどうか、と考えるが、他の国がすることにまで文句を付ける訳にはいくまい。他の国が人を売り買いするのならば、日本は黙認するのが相当だろう」
私はそれとなく言い、それを聞いた石川数正らはその裏を察したようで、無言で頭を下げた。
さて、その裏だが。
この当時の東南アジア(というか世界中の)貿易では、人身売買が公然と行われていた。
要するに人を奴隷として売り買いするのが、当然の社会だったのだ。
それこそ傭兵から娼婦から、小作人や奉公人等々、多くの職業に奴隷が就いているのが、この16世紀の世界社会では当然のことになっていた。
こうした社会で、私が奴隷や年季奉公人廃止を唱えても無意味極まりないのは当然のことになる。
それこそ21世紀現在でコンピュータ(電算機)無しの社会を造れ、というのも同然の空理空論を私が叫ぶようなことになるからだ。
だから、奴隷や年季奉公人を私は認めざるを得ない。
とはいえ、日本人を大量に外国に売っては、それこそ人口こそ国力と言える産業革命以前の世界において、日本の国力低下を招くのは必然の話になる。
それ故に折衷案ではないが、日本人を外国に売り飛ばすのは認められない、だが、外国人が外国に人を売り買いするのを、日本人商人がやるのは黙認すると言ったのだ。
こうすれば、日本人商人は人身売買の仲介料等で儲けることができるのだ。
前世の21世紀の感覚からすれば犯罪もいいところだが、この16世紀に人身売買禁止を叫んで、世界に実施させる等、私の力では不可能な話だ。
何しろイスラム教はコーランで奴隷制度を公認しており、奴隷制廃止は神の教えに反すると説くのがこの当時の現実だし。
キリスト教のカトリックを始めとする多くの宗派が、異教徒を良きキリスト教徒にするために、異教徒を奴隷にするのは神の教えに従う善行だと説いているとさえ、キリスト教の宣教師は唱えていて、実際に大量の非キリスト教徒の日本人を外国に売り飛ばすのに手を貸しているらしいのだ。
私はこうした実態を見聞きするにつれ、この時代ではキリスト教は日本では禁教にせざるを得ない、更には日本対スペイン、ポルトガル戦争を場合によっては決断するしかない、と内々では考えざるを得なくなっていた。
少なからず先走ったことも述べてしまったが。
こうした私の考えを徳川家中のみならず、織田家や足利幕府、更には朝廷にまで伝えて、更には先方も私の考えを受け入れて、日本の貿易は進められることになっていった。
本当に酷い主人公だ、とフクロにされそうですが、この当時の現状を考えると日本人を売らないだけでも、かなり良心的という現実が。
(何しろ兵器を外国に売り込むのを現在の日本でさえも積極的に推進するのが現実です)
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