第30話
とはいえ、実際に幕府からの依頼(更には今上陛下の意向まで示されている)を断れる訳もなく、島津氏は表向きは幕府(実際には私、徳川信康)による琉球との交易活動に協力することになった。
そして、琉球を実際には中継拠点として、更に東南アジア方面での交易活動を図ろう、具体的には主に硝石の輸入を図っていこう、と漠然と私は考えていたのだが。
こういったことは中々思うようには進まないのが当然だった。
(更に言えば、私の前世は海上自衛官であって商売人では無かったし、現世でも武将なのだ。
それこそ武士の商法ではないが、こういった商売事はどうにも不得手なことになるのは当然だった)
取り敢えず、琉球政府に朝廷と幕府からということで使者を送り、ジャンク船を造る技術者を日本で雇うことを認めてもらった。
琉球政府としては、自国の頭ごしに日本が明等と交易を行うのでは、として一部の者が反対したようだが、実際問題として、この頃の琉球は明が琉球を介した朝貢貿易に消極になったことで、経済的苦境に喘いでおり、短期的には日本からの技術者招へいのための資金提供があり、長期的には日本と東南アジア間の寄港地として、自国が栄えるのでは、という考えから、ジャンク船建造の為の技術者を日本が雇うのを認めてくれた。
そして、琉球のジャンク船を造る技術者を三河に招いて、日本にいた造船技術者と協力させて、新たな日本式のジャンク船建造を三河で試みたのだが。
これは意外と難事になった。
琉球でジャンク船は造られていたのだが、明と琉球の(朝貢)貿易が消極化したことから、中小型のジャンク船しか長年に亘って造られておらず、200名以上の乗組員が必要な大型ジャンク船の建造技術が事実上は失われており、日本で東南アジアとの交易のために大型ジャンク船を造ろうとすると試行錯誤する事態が起きてしまったのだ。
そんなことから、まずは日本の造船技術者への習作も兼ねて、琉球の技術者が造ってきた乗組員が100人台の中型のジャンク船複数を日本と琉球の技術者の共同で建造、完成した後。
航海技術の訓練も兼ねて、こうして造られた日本製のジャンク船で東南アジアへの探索行に、日本の水軍関係者の面々(その多くが徳川水軍の関係者)は赴くことになった。
更には琉球を前進拠点とする日本の水軍関係者の面々の東南アジアへの探索行の結果、硝石の購入が実際に行われて、更に他に日本からの輸出品は無いか、又、輸入品は無いか、と探ることにもなった。
そして、その結果報告を順次、私は受けることになったのだが、本当に頭を抱える羽目になった。
「東南アジアから硝石を輸入せねばならないが、日本からの輸出品は乏しいのが現実か」
「御意。更に言えば、伽羅や明の絹等、日本への輸入品は多数あるのが現実です」
小浜景隆等の報告を、それなり以上に要約してくれた石川数正の報告書を読み終えた後、私は石川数正と密談をする羽目になった。
「日本国内では南蛮からの技術導入によって、順調に金銀が増産されていますので、ある程度はそれを使って、硝石等を輸入することは可能ですが」
「待て待て、そんなことをしては日本から大量に金銀が流出してしまう」
石川数正の言葉を私は押し止めることになった。
幾ら私が元海上自衛官であって経済関係に疎いとはいえど、その程度のことは分かる。
「では、どうされますか。それこそ(キリスト教の)宣教師達がやっているように、人を積極的に売りさばくことを認められますか」
現実を直視しろ、と暗に言う石川数正の直言に私は沈黙せざるを得なかった。
実際に現実を真面目に考える程、人を売るのが妥当としか言いようが無いのが、今の現実なのだ。
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