第29話
さて、徳川水軍の船だが私は散々に悩んだ末だが、琉球からジャンク船の技術を教えてもらうことにした。
勿論、南蛮船(ガレオン船)に魅力を感じなかった訳ではない。
しかし、実際に建造できる技術者が集まるかというと。
どう考えても、最初はジャンク船にして、その後で南蛮船の技術を組み合わせるのが妥当と考えたのだ。
尤もこれはこれで、島津氏との軋轢を生じることになった。
島津氏にしてみれば、琉球との窓口は長年の経緯から自分が独占していると主張し、徳川氏が手を出すのに反対したのだ。
しかし、私には複数の奥の手があった。
「近衛殿の親書と将軍御教書です。この二つに逆らわれるのですか」
「うむ。流石に逆らいは致しませぬ」
私が送った使者の持参した二つの書面を見て、島津義久の顔は苦渋に染まりつつ、そう言わざるを得なかったらしい。
(私はその場にいなかったので、伝聞によるものだが)
島津氏が南九州で多大な力を持った発端は、近衛家の荘園である島津荘(薩摩、大隅、日向の三国にまたがる8000町歩(ヘクタール)もの大荘園)の下司職に家祖といえる惟宗忠久が任じられたことに始まる。
そして、島津荘が本貫の地だと周囲にも示すために、惟宗忠久は島津姓を称するようになったのだ。
その後、鎌倉時代から南北朝時代、更には室町時代から戦国時代まで有為転変はあったが、基本的に島津氏は南九州の有力な勢力であり続けた。
(その一方で、島津氏内部の紛争も激しく、島津義久の父である貴久は分家である伊作家から島津宗家に養子として入り、島津氏を再統一することになった)
ともかく、そういった縁があっては、近衛前久殿からの親書が島津氏に送られては、島津氏としてはその親書に基づく依頼を断りづらい。
更に何だかんだ言っても、いわゆる京から離れた地方になる程、将軍家、室町幕府の威光はそれなりに残っている。
だから将軍御教書で命ぜられては、余程、理不尽な命令でない限りは、島津義久にしてみれば断れない話になるのだ。
さて、その依頼、命令の内容だが。
島津義久は重臣達を集めた席で、吐き捨てるように言わざるを得なかった。
「琉球との交易だが、今上陛下の求めに応じて幕府が直に行うのに、島津氏は便宜を図るようにとの将軍御教書が下された。尚、将軍御教書には、添状として近衛前久殿の親書が添えられている」
「それは流石に断れない話では」
「全くその通りだ」
伊集院忠棟の言葉に、義久はそう言った。
「琉球との交易について、今上陛下の求めに応じて幕府が直に行う、と言われては島津氏は便宜を図らざるを得ない。だが、その裏が垣間見えるのが、真に腹立たしい」
「三宅国秀の一件もあって、琉球との交易は我が島津氏を介すのが当然になっていました。実際問題として、琉球との窓口として坊津港は栄えてきたのです。それが、直に幕府も琉球と交易を行うと言われては坊津港は衰退することになり、島津氏にとって財政に大打撃になります。ですが、このような提案を裏で誰がしてきたというのですか」
義久の怒りを秘めた言葉を、少しでも宥めるように忠棟は言った。
「恐らくだが、徳川信康だろう。信康は硝石等を少しでも安く手に入れようと画策していて、その考えから水軍等の整備に励んでいるとか。更にはその一環として、琉球に目を付けたのだろう」
「成程、新しく将軍になった足利義助殿の最大の支援者は織田信忠殿、更に織田信忠殿を支えているのが、義弟の徳川信康殿との風聞がある。更に信康殿の所行からすれば、確かにあり得る話ですな」
義久の言葉に、筆頭家老と言える忠棟はそう言った。
「本当に腹立たしい話よ」
「全くですな」
義久と忠棟はそうやり取りをした。
話の中で三宅国秀の件が出てきますが、私が調べる限り、本当に謎の事件としか言いようが無く、ぼかして描かざるを得ませんでした。
(それに詳細に描くと、別の歴史エッセイになります)
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