第28話
少し時が流れ、1576年が舞台となります。
1576年春、父である信玄の三年の喪が明けたとして、武田勝頼は北条家との同盟(といっても停戦協定といっても過言では無かったが)を正式に破棄し、北条領に攻め込む事態が起きていた。
この武田家の攻勢に、同盟している徳川家も呼応して、北条領に攻め込むことになった。
だが、私は岡崎城に引き籠る事態になっていた。
「何か屈託があるようですな」
「数正か」
私と石川数正は、岡崎城で話し込んでいた。
「うむ、父は北条を攻めるのに乗り気だが、本当に良かったのか、と考えている」
「確かにその通りかもしれませんが、北条もそれなり以上のことを、こちらに仕掛けていたではありませんか」
「今川氏真殿を押し立てて、駿河全てを今川領にしようと策動を仕掛けている、と聞いてはいたな。だが、それを言えば、こちらもこちらだ。本多正信を中心にして、こちらも様々な策謀を駿河東部や伊豆等の国衆に仕掛けていたであろうが」
「将軍御教書というのは、こういうときに使うべきものです、とまで正信は放言したとも聞きますな」
「そんなことを言っては、榊原康政らが正信を裏で嫌うのも無理はないぞ。榊原康政に至っては、
『腸の腐れた奴が松平家に仕えるな』
とまで言っているらしいぞ。正信が父や私に忠実なのは良いが、あの性格は本当に直さんといかん」
「確かにそうですな」
私と数正の話は進んだ。
「それはともかくとして、実際のところ、北条家を滅ぼすことは出来そうなのか」
「私の見る限り、北条家の滅亡は確定的ですな」
「ということは小田原城は陥落すると」
「そう私は判断しています」
私と数正は更なる会話をした。
北条家の本拠と言える小田原城は、天下の名城として知られている。
何しろ天下の名将の一人と謳われる上杉謙信が、一説によれば関東の国衆を総動員して10万を超える大軍をかき集めて攻めたにもかかわらず、陥落しなかったのだ。
(尚、上杉謙信の攻城が成功しなかったのは、この当時の北条家の同盟軍である武田家や今川家が小田原城救援の派兵を行い、又、関東地方全体が凶作に見舞われていて、補給困難になっていたことから、上杉謙信としては、腰を据えた長期の兵糧攻め等が不可能だったのが大きいとか)
又、武田信玄も威力偵察レベルではあったが、小田原城を攻撃している。
だが、何とか三の丸の蓮池門まで攻め込むのが精一杯で、信玄でも退却せざるを得なかったとか。
こういった天下の名将二人が攻めて陥落させられなかった小田原城を、本当に徳川軍が攻め落とせるのか、私は疑問を覚えてならない。
私の乏しい前世知識に因れば、父の徳川家康も名将と呼ばれるに相応しい才能の持ち主ではあるが、上杉謙信、武田信玄よりも名将なのか、と言われると私は否と答えざるを得ない。
(私の考える限り、私の前世の知人の多くが、私の主張に同意すると考える)
勿論、それなり以上の兵力で小田原城を長期に亘って攻囲して、最終的には兵糧不足等で小田原城を攻略すれば済む話といわれるだろうが、そんなことをしては、それこそ費用対効果的に引き合わない話になるのが当然だ。
その辺りのことについて、父なりに考えているようで、本多正信他の援けも得て、それなり以上の攻城対策を講じているようだが。
私は要らぬことをするな、と父に叱られそうだが、私なりの手を密やかに打つことにした。
徳川(松平)水軍は徐々に外洋へと赴けるようになりつつあり、又、自衛の武装も充実して、それなり以上の大砲や火縄銃を装備しつつある。
こういった徳川水軍の現状からすれば、小田原城攻撃に艦載砲を転用して使用することも可能ではないだろうか。
不要ならばそれで良いが、攻城のための大砲を準備すべきだろう。
ご感想等をお待ちしています。