第23話
この後、5話程掛けて、1573年秋段階の主人公周辺の情勢等の説明話を描きます。
1573年秋、私は気が抜け過ぎと言われても仕方のない有様を呈していた。
今夜も今夜とて、妻の五徳の膝枕でだらけた態度を私は示している。
「娘の福子が武王丸の良き妻になれば良いがなあ」
「気が早すぎます」
「とはいえ10年も先のことでは無いぞ。お前と結婚したのは10歳になる前だ」
「確かにそうですが」
妻の言葉には陰りがある。
無理もない、理屈では分かっていても、感情ではどうにも納得できない縁談なのだ。
半年近く前に武田信玄の逝去が公表され、盛大な葬儀が武田勝頼を喪主として行われた。
三年喪を秘せ、と信玄は遺言した筈では、と私の歴史知識が怪しいのを改めて私は痛感したのだが、その後に起こったのは、私にしてみれば驚天動地の出来事としか、言いようが無かった。
「武田の方から和睦を持ち掛けてきただと」
「はい。私としては父の意向に逆らえなかった。私は改めて織田家や徳川家と仲良くしたいと武田勝頼殿は申されています」
「どんな条件を持ち出している」
「改めて人質も兼ねて、自らの妹の松姫を織田信忠殿に嫁がせたいとのこと。又、徳川家に対しては、家康の初孫になる福子(信康の長女)を、自らの嫡子である武王丸と婚約させたいとのこと。尚、これらすべてが認められて、織田、徳川、武田の三国同盟が締結されるならば、引き出物と言う訳では無いが、駿河の武田領を徳川領にしてもよいとのことです」
「何と」
武田勝頼からの織田、徳川、武田の三国同盟締結の申し入れとは。
歴史が変わるにも程があり過ぎではないだろうか。
だが、それ以外にも歴史が変わる事態が起きている。
長良川河畔の戦いで、幕府奉公衆の寝返りによって織田信長が討ち死にしたことは、信忠を始め、多くの織田家の家臣を激怒させた。
更にこれで織田家は崩壊すると考えたのだろう、1572年11月には足利義昭自ら挙兵し、長良川河畔の戦いでの幕府奉公衆が織田信長を討ったのは自らの指示だ、と公言する事態が起きたのだ。
そして、この事態を受けた織田家の多くの家臣は信忠の下、足利義昭を断じて許すなの声を挙げて、足利義昭に対して猛攻を加えることになった。
その結果、この織田家の攻勢の前に、足利義昭は槙島城に最後は立て籠もって講和を図ったのだが、その講和条件として、自らの将軍位維持や織田信忠を織田家当主と認める等の空気が読めていない講和条件を示したのだ。
だが、そんな講和条件は、信忠以下の織田家の面々の怒りに文字通りに火に油を注ぐことになり、足利義昭は織田家の攻撃によって最期は惨殺される羽目になったのだ。
(尚、少しだけ足利義昭の弁護をすると、義昭の理屈としては、自分しか幕府の将軍を務められる人物はいない以上、信忠以下の織田家の面々は最後には自分を許して、絶対に自分が将軍を続けられる筈との考えがあったようだ。
最悪でも京からの一時的な追放程度で済む、と義昭は甘く考えていたとも私は聞いている。
だが、騙し討ちされた主君の無念を晴らせ、との織田家の総意は、将軍弑逆という事態を平然と引き起こし、義昭の子どもまでが混乱の中で殺されて、京の都で義昭の首は晒し首になったと私は聞いた)
1573年春に足利義昭の挙兵はそんな結果に終わったのだが、ともかく復讐が一段落し、ほぼ同時に武田軍が撤退したことは、織田家の今後をどうするのか、という問題を引き起こした。
この時に私が積極的に動けば織田家の外戚でもあるし、私の功績から織田家の重臣筆頭に徳川家はなれただろうが、私はそんな気になれずに動かなかった。
そうした背景もあって、私の義兄の信忠が正式に織田家の家督を継ぎ、織田家は丹羽長秀や柴田勝家らが集団で指導する体制になった。
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