第21話
さて、私と武田信玄との交渉の大よその内容だが。
「幕府奉公衆が私の義父の織田信長殿を襲った件について、本当に武田家は関与していないのですな」
「言うまでもない。武田家は全く与り知らぬこと」
私が武田家に送った使者に対して口を拭った回答を武田家はしてきた。
(メタい話だが)この辺り、後々に判明した事情まで併せてこの際に述べるならば。
実際に幕府奉公衆が「上意である」と叫んで、義父を攻撃して首級を挙げたのは事実らしい。
だが、本当に「上意」(足利義昭が織田信長を討て、と命じた)なのか、それともこの場にいた幕府奉公衆が実は武田家に内通していて、「上意」と騙って義父を襲ったのか。
それとも戦場において、武田軍の攻撃の前に織田軍が退却を始めたことから、この際に足利義昭や武田信玄に忖度して、独自に私の義父を襲ったのか。
その辺りの真相は、永遠の謎と言って良い事態が起きたのだ。
(何しろ「上意である」と叫んで義父に対する攻撃を始めた明智光秀ら、幕府奉公衆の多くが松平(徳川)軍によって殺されてしまったのだ。
こうなっては、真実が何処にあるのかを究明するのが困難になるのは、当然のことだった)
そして、こういった交渉をしている内に何とか私は岐阜城内の織田連合軍を完全に取りまとめて、武田軍に対抗して動けるようにした。
ともかくこうした結果として、義父の織田信長を失ったとはいえ、やや優位の兵力を私がまとめて岐阜城に織田連合軍がいて抗戦しているという状況は、武田軍の動きを困難にした。
(更に私には後で分かったことだが)武田信玄の持病が徐々に重くなっていたのも、武田軍の行動を困難にしていた。
こうしたことから、岐阜城近郊で武田軍と織田連合軍は小競り合いをしつつ、ほぼ睨み合うことになり、又、岐阜城救援に私の父を始めとする面々が周囲から駆けつけたことで、美濃にいる武田軍の兵力は更に劣勢になっていった。
そうした状況が相まった結果として、1573年の年明けになってから、
「武田軍は信濃へ退くだと」
「はい、追い討ちを掛けぬのならば、これ以上の濫妨狼藉を働かずに速やかに退くとも約束すると」
「ふむ、他には」
「遠山家を始めとする東美濃等の武田家方の国衆を攻撃せぬと約束して欲しいとのことです」
「うむ」
武田家からの使者がもたらした口上に、私は悩むことになった。
私としては緊急避難的な感じで、岐阜城にいる織田連合軍の総大将になっていたのだが、本来から言えば、私は織田家からすれば余所者になる。
だから、時間が経つにつれて、織田家の面々から、
「信康はひょっとして織田家を乗っ取るつもりなのではないか」
という疑念の声が挙がりつつあるのが現状であり、ここで武田家の申し入れを私が受け入れては、そう言った疑念の声が更に高まる可能性すらある。
本来から言えば、そう言った判断は私の義兄になる信忠殿がされるのが当然だからだ。
とはいえ、現状の美濃で織田方で最大の兵力を握っているのは、私と言う現実がある。
私が武田軍との停戦に応じれば、ほぼ必然的に美濃の織田方の軍勢は停戦に応じざるを得ない。
取り敢えずは、岐阜城内にいる主な面々を集めて、私は皆の意見を聞くことにした。
「この際、武田の申し入れを受け入れるべきかと」
「そうか」
佐久間信盛がそう言いだして、私は阿吽の呼吸でそれに同意した。
この場にいる織田家の最高の重臣がこう言いだしたのは、私に岡崎城に早く帰って欲しいのもあるのだろうが、ともかく佐久間信盛が言い出したのは、私には有難い。
更に水野信元らも佐久間信盛の意見に賛同した。
それぞれに色々と思惑があるのだろうが、私としてはこれで肩の荷が下りるとホッとした。
表面上は大したことが無いように読めますが。
それこそ初陣で10代半ばの松平信康が、天下の名将と名高い武田信玄と半年に亘って対等に渡り合った末に武田信玄の病もあったとはいえ、武田軍を美濃からの撤退に追い込んだという現実が。
(更に言えば、信康にすれば義父の織田信長がいきなり討ち死にするという非常事態においてです)
こうしたことが、信康の評価を周囲から暴騰させる事態が起きます。
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