第17話
だが、私の決断は(後で分かったことだが)別の面で大きな影響を与えてしまった。
私の行動を見て、この時に微妙に織田と武田、松平(徳川)の間で風見鶏のような態度を示していた縁者の水野信元殿も兵を率いた上で私に同行し、美濃に急行する事態が起きた。
(私のような若僧まで、美濃に赴こうとしているのに動かないでいては、後々に色々と差し障りが出ると信元殿は考えられた為らしい)
ともかくそうしたことから、留守居を除いても約七千(松平(徳川)勢約五千、水野勢約二千)の兵が美濃に駆けつけて、岐阜城に入城する事態が起きた。
この状況に私の義父の織田信長は表面上は歓迎する態度を示したが、内心では頭を抱えたらしい。
この時の武田信玄が率いる軍勢は、それこそ武田信玄が直率しており、更に馬場信房を始めとする武田二十四将(私が後で知った事だが、武田の主な武将でこの場にいなかったのは、山県昌景が奥三河で松平(徳川)の主力に対する牽制任務についていて不在だった程度)の多くが揃う等、武田軍の精鋭を選りすぐったと言って良かったが、実際問題としてその兵力は東美濃から参加した遠山や明智といった国衆を入れても、精々が二万四千といったところだった。
それに対して、義父の織田信長が率いる軍勢は、この当時の現状から朝倉、浅井勢に対処するために北近江にかなりの兵を配置せざるを得なかったし、又、摂津や大和、山城等にも治安維持等の為にそれなりの兵を配置しない訳にはいかなかった。
こうしたことから、岐阜城に義父が集められた兵は二万がやっとといったところで、更に多くの優秀な武将を各地に分散配置せざるを得ず、この場にいる有力な武将は佐久間信盛くらいのもので、義父としては岐阜城に基本的に籠城して持久戦略を採り、それこそ自らを囮として武田軍に岐阜城を攻囲させて、逆に武田軍を疲弊させて、勝利を得ようとしたらしい。
(兵力的に自軍が劣勢な中、本拠と言える美濃や尾張に安心して防御を任せられる武将が不足している以上は、合理的な考えと言えると私も考える。
幾ら何でも何か月も天下の岐阜城を、兵力的にやや優位にある程度の武田勢が攻囲を続けるのは困難だし、かといって二万もの軍勢が籠る城を無視する訳にもいかない。
数か月の睨み合いの末に武田軍は撤退するのは必然と言えた)
だが、私達が駆けつけたことで、織田軍の兵力が優勢になってしまった。
それなのに一戦も交えずに信長自ら岐阜に籠城では、織田軍は武田軍を怖れているという噂が奔り、各地の反織田勢力が挙兵したり、中立勢力(その中でも厄介なのが足利義昭)が反織田勢力になったりする可能性が高い。
こうしたことから、義父は野戦の決断を下すことになった。
「我が娘婿が積極的に駆けつけてくれ、兵力的にも我が軍は優勢になった。この際、岐阜城から出撃して武田軍と一戦を交えることにする」
「応」
義父の号令に、私も含めて多くの武将が呼応の声を挙げた。
そして、その号令の後、義父に私は密やかに呼ばれて言った。
「明日の戦、真面目に戦う必要は無い。生き延びよ」
「はっ」
反射的に私は言ったが、脳内で疑問が渦巻いた。
「明日の戦、どう見ても勝てぬ。適度に戦って、岐阜城に逃げ込め。儂もそうする」
「はっ」
義父は温かみのある言葉を私に掛け、それに私が答えた後で半ば独り言を言った。
「儂と違い、義父を援けるために命を懸けるとは良い婿を迎えられたわ。この戦を終え、岐阜に籠って武田を退けた後、岡崎を訪れて孫に会わねばな」
「はっ、その際には心尽くしの宴をしましょう」
「それは楽しみじゃ。家康殿も呼んでやろうぞ」
義父と私は温かみのある会話を交わして、明日に備えた。
読み直してみると、分かる人にしか分からない会話を信長と信康はしている気がするので、補足します。
史実になりますが、織田信長の義父の斎藤道三が、実子の斎藤義龍と戦って戦死した際、織田信長は義父を救援しようとしましたが結果的に間に合わず、道三は国譲り状を信長に遺すことになりました。
信長はそれを思い起こし、自分は間に合わなかったが、儂の娘婿は間に合ったか、と感傷を抱きました。
(更に言えば、本音では信長は信康に来てほしく無かったのです)
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