第116話
少し幕間的な話で、この当時のカリブ諸島や南北米大陸の日本の植民地が、どのように開発されつつあるのかの説明話です。
そして、そういった異母弟の縁談を進めることをして、又、カリブ諸島の開拓を私が率先して進めることをする内にも時が流れていく。
それこそ文字通りに10年以上を掛けて、カリブ諸島の開拓を私は進めた。
又、そうこうしていると、私の側室の茶々の甥になる浅井亮政(浅井長政からすれば万福丸を介した孫になる)も、私が招いたこともあって、カリブ諸島の一部、具体的にはジャマイカ島の開発に主に当たることになった。
この浅井亮政のジャマイカ島の開発だが、本当に紆余曲折を経ることになった。
他のカリブ諸島を始めとするメキシコやペルーといった、この頃の日本の植民地でも多発したことではあるのだが、それこそ運び込まれてきた奴隷ではなかった年季奉公人を頼りにする事態となった。
何しろジャマイカ島に以前から住んでいた現地住民は、スペイン人が持ち込んだ疫病等によって、ほぼ絶滅状態で、実際に住んでいたのは極少数のスペイン人と多数の黒人奴隷と言っても、あながち間違いではない状況だったところを、浅井亮政は開発することになったのだ。
尚、浅井亮政が私の下でジャマイカ島で行ったことだが、実は他の南北米大陸の日本の植民地でも多発したことで、私が率先して指導したことでもあるのだが。
まずは、新たな奴隷の輸入を禁止して、年季奉公人の輸入ならば認めることにした。
そして、年季奉公の最長は10年として、その更新は認めないことにしたのだ。
又、奴隷に関しても適宜の解放を奨励し、再度の奴隷化は認めないことにした。
更に奴隷の子であろうと、奴隷としての売買を禁止して、年季奉公のみを認めて、年季奉公が明ければ自由人にすることにしたのだ。
そうすると、必然的に奴隷の数は減少していくことになる。
何しろ奴隷の輸入は禁止だし、奴隷の子と言えども奴隷にはならないのだ。
これが完全に奴隷労働に依存する社会の中で育ってきたならば、こういったことをしたら、奴隷主の殆どが抗議する事態が引き起こされてもおかしくないが。
何とも言えない話だが、戦国時代の日本はこういった奴隷労働に依存する社会とは言えなかった。
(実際には奴隷に等しいと言われても仕方のない、住み込みの家事使用人や農奴が現実にはいたが、それが奴隷と言えるか、というと。
更にそれが国外から運ばれてくる存在か、というと。
そんなことはないのが、戦国時代の日本だったのだ)
こうしたことから、言葉を変えただけではないか、と叩かれても仕方がないが。
奴隷制度は、現実的には年季奉公人制度に置き換わっていき、更に年季が開ければ、年季奉公人は自由人になっていくことになった。
更に言えば、この当時のカリブ諸島の大地はそれなりに広大であり、新たな農地を開拓した場合、そこを現実に開拓した奴隷、年季奉公人を引き続き小作人として雇用できるのが当たり前だった。
こうしたことから、広大な農地を日本人が保有する地主となり、その農地をガリポリ海賊等が運んできた奴隷では無かった年季奉公人や、年季が開けた小作人が耕すのが、ジャマイカのみならず、カリブ諸島では当たり前になっていった。
(更に言えば、こういったことが、カリブ諸島から、メキシコやペルーに広まって、そこから日本人の南北米大陸への侵出が活発化する中で、南北米大陸ではよくある事態になってもいった)
私としては、奴隷から年季奉公人に看板を掛け替えただけの気さえすることだったが。
とはいえ、実際に働く者からすれば大きく違う事態だ。
何しろ年季が開ければ、自由人になれて、転職も考えられるのだ。
一生、奴隷でしかない運命からすれば、天と地ほども違う気がする事態だった。
こうして、日本の植民地は開発された。
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