第110話
そして、この後の1年近くを掛けて、メキシコを私が率いる日本の軍勢は徐々に制圧していった。
とはいえ、幾ら2万の実戦部隊を率いていたとはいえ、それだけの兵数でメキシコ全土を抑えることは不可能と言って良い話で。
それこそメキシコの枢要部についての点と線の支配を、取りあえずは日本が行っただけと言っても過言では無かった。
その一方で、この当時のスペインの支配の現実が、この地に赴いたことで私にも分かって来た。
この17世紀初頭の頃のスペインの中南米の支配の状況だが、表向きはブラジルこそポルトガルが支配していたが、それ以外の中南米の全てをスペインが支配していることになってはいた。
だが、その実態はというと、その多くの土地においては、エンコミエンダ制という、スペイン人入植者が現地の先住民を国家から信託を受けて、その貢納を受ける形で統治を行っているのが現実であり、国家による統治が貫徹しているとは言い難い現実があったのだ。
だから、日本軍が進軍していく先で、どれだけの武装抵抗が引き起こされたか、というと。
その殆どの地において、熱狂的な狂信者である宣教師やスペイン人入植者の一部が、懸命の武装抵抗を試みても、多くの現地の先住民が積極的に協力した上での抵抗は行おうとはしない事態が引き起こされたのだ。
だから、メキシコの制圧を私達は順調に行えたと言えたが。
その一方で、広大なメキシコの大地を面として制圧して支配するのには、日本の軍勢は寡兵としか、言いようが無いのが現実だった。
だから、アカプルコからメキシコシティへ、更にベラクルスへ至る街道沿いを、まずは制圧する。
他にメキシコ各地に点在する銀を始めとする鉱山と、それをつなぐ街道を制圧するのを優先することにして、この点と線の支配を確立するのを、自分というか、日本は最優先にすることになった。
このようなメキシコの制圧作戦だが、もし、スペインの支配が現地の先住民の民心を完全に得たモノであったならば、それこそ日中戦争の日本が陥ったように、泥沼のゲリラ戦に日本が苦しむことになってもおかしく無かった。
だが、実際のところ、スペインの支配は上述のようなモノだったのであり、現地の先住民の多くというよりも殆どが、この地の新たな支配者になりつつある日本におもねる態度を徐々に示した。
実際、私達も現地の先住民の歓心を少しでも買おうとして、占領地においては賦役と言う形で課せられていた税を、できる限りは住民に土地を分配して、そこで生産された農産物を納税する形に、まずは切り替えて、その上で(現実化するのは私が亡くなった後になるだろうが)徐々に完全金納化を目指すようなことをした。
これによって、これまで奴隷労働を強いられていた者達が、土地を与えられて、その生産物が自分の物になるということで、その多くがやる気を出して農作業等に従事するようになった。
そして、この話が広まるにつれて、現地の先住民の多くが日本に心を寄せるようになり、そのことから日本の支配地域は広まることになったが。
とはいえ、余りにもメキシコは広大で完全制圧を目指すとなると、数年掛かりのことになる。
だから、点と線の支配が取り敢えず成ったと考えられた1年後には、私はメキシコに残って統治機構整備に勤しむ一方、伊達政宗らはペルーを目指す事態が起きた。
というか、それこそポトシ銀山を筆頭とするペルー(細かく言えばポトシ銀山はボリビアだが)の銀山の魅力の前に、伊達政宗らはメキシコに止まってはいられなくなったのだ。
そして、伊達政宗らが率いる陸海合わせて約3万の軍勢は、2年余りを掛けてペルーの枢要部の占領を果たすことになったのだ。
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