第106話
そして、1601年春に私は陸海合わせて約8万人、馬約1万頭、他にそれに見合う様々な物資を載せた輸送船約300隻を、約50隻のガレオン船に護衛させて、いよいよアカプルコへ、さらにメキシコの大地へと赴くことになった。
それを私の家族は見送ってくれた。
このカリフォルニアの地にいる私の家族は、正室の五徳と側室の茶々、それに茶々が産んで五徳が育てている息子2人と言ってよい。
五徳が産んで無事に成長した娘は全て既に嫁いでいる。
尚、私の母の築山殿は、私が孝養を尽くしたいと父や周囲に主張したことから、カリフォルニアに赴く際に私と同行していたのだが。
先年に病に罹って、カリフォルニアで亡くなっている。
余談ながら、五徳と築山殿はカリフォルニアでは、そこそこ仲の良い嫁姑で過ごした。
五徳が成長した息子に恵まれなかった一方で、茶々の産んだ息子を手元で可愛がったので、その子が結果的に嫁姑のかすがいになったようだ。
勿論、二人がぶつからなかったことはないが、一時程のような険悪な関係にならずに済んで、私としてはホッとした末に、母を看取ることができた。
それにしても、と私は考えざるを得なかった。
自分は42歳だが、長男はまだ11歳に過ぎない。
私の前世だったら、よくある話だが、この時代では遅い子になる。
人生50年と考えれば、私が50歳で亡くなる際、長男は19歳ということになるのか。
少し不安を覚える年齢差だ。
だが、その一方で、これだけの年齢差があれば、息子をライバル視しなくて済む。
私と父は17歳しか年齢差が無く、それもあって父は私をライバル視したのだから。
(ちなみに家康と秀忠の年齢差は37歳です)
そんなことを考えた後、私はアカプルコを目指して行った。
さて、話は変わるが、アカプルコに向かう輸送船団の護衛艦隊の主力を成すのは、徳川水軍と毛利水軍だった。
だが、徳川水軍も世代交代が起きており、小浜景隆は没していて、向井正綱が総指揮官を務める事態が起きていた。
そして、毛利水軍がこの地に赴いていた理由だが、毛利秀元の強い主張に因るモノだった。
毛利家はインド洋作戦に対して、基本的に消極的な態度を執った。
それで、朝廷や幕府の不興を買ったと考えた小早川隆景は、自分が没した後の毛利家の舵取り役として期待していた毛利秀元を、インド洋作戦に参加させて見聞を積ませたのだ。
この小早川隆景の期待に応えて、毛利秀元はインド洋作戦の見聞を踏まえて、毛利家も積極的に海外に出るべきだ、と周囲に訴えるようになった。
更に今回のメキシコ侵攻作戦は、朝廷や幕府の好感を得る絶好の機会であるとして、同族の小早川元包と共に毛利水軍を率いて、この地に乗り込んできたのだ。
かくして徳川水軍と毛利水軍を主力とする日本の船団は、アカプルコに殺到したのだが。
私の予想がほぼ当たることになった。
アカプルコには、スペインの軍艦としてはガレオン船5隻が停泊していただけだった。
普通に考えれば、これだけの軍艦を展開させれば充分すぎる戦力だったろうが、それこそアルマダ開戦時のスペイン艦隊以上の規模を誇る、この時の日本の船団を迎え撃つには蟷螂の斧と言われても仕方のない戦力差だった。
スペイン艦隊は陸上の砲台の支援も受けて懸命に抗戦したが。
陸上の砲台にしても何十門も大砲を備え付けておらず、私がざっと数えたところ、スペイン軍の大砲は約300門と見積もられた。
それに対して、日本艦隊の大砲の数は、輸送船が自衛用に積んでいる大砲までも数えるならば、それこそ数千門あり、10倍以上に達している。
これだけの差があっては、幾ら陸上の砲台からの支援があってもスペイン艦隊の敗北は必至だった。
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