第101話
私は(現実世界で言えば)サンディエゴ近くに、私の部下や奥羽の大名とその重臣達を呼び集めた。
その理由は言うまでもなく、カリフォルニアの現状を皆で確認した上で、メキシコ等への侵攻作戦を具体的に計画するためだ。
そして、私の呼びかけに、一番に呼応したのは、伊達政宗だった。
史実と異なって自らがほぼ戦場に赴くことなくして、日本が再興された足利幕府によって統一されてしまったからだ。
言葉は悪いが、それこそ暴れることが出来なかった政宗は、カリフォルニアでならば暴れることが出来ると考えたようで、私がカリフォルニアに共に赴こうと言った際には、二つ返事の有様だった。
それこそ片倉小十郎や伊達成実といった股肱の臣を連れて、この場に政宗は駆けつけて来た。
他にも佐竹義重や最上義光といった奥羽の諸大名、更にその重臣達も、内心はどうか分からないが、私の呼びかけに答えて集ってくれた。
又、言うまでもないが、この時点で健在な徳川家の主な武闘派の面々、本多忠勝や榊原康政等の面々もこの場に集った。
何故にこのような状況になったのか、メタい話になるがこの際に述べるならば。
この時点で徳川家は3つに分裂していると言っても過言では無かった。
本来の当主である徳川家康が日本本国の徳川領を治めており、私がカリフォルニアに赴いて、新たな徳川領をこの地で開拓しており、松平秀康がフィリピン諸島の徳川領の統治に当たっていた。
これはこの時代の交通・通信手段の現実から止むを得ないと言っても過言では無い事態だった。
そして、本来ならば、その全てを取り仕切るのは、私の父である徳川家康だが。
それこそ私の父の家康は、日本の海外侵出に消極的な態度を執ったことから、朝廷や足利幕府の覚えが悪くなっており、事実上は徳川秀忠に家督を譲って、半隠居状態に追い込まれていたことから、私が徳川家の当主に、1599年の時点では事実上は成っていたのだ。
とはいえ、カリフォルニアにいる私が日本本国の徳川領に目が届くわけがない。
それに事情があるとはいえ、父をある程度は宥める態度を執らないと、私の世間受けが悪くなる。
そんなこんなから、本多正信を日本本国において、本多正純をカリフォルニアに連れてきて、又、本多政重をフィリピンにおいて、父子間でも連携させることで、徳川家中の意思疎通を図ることに私はしたのだ。
他にも大久保一族を似たような感じで、日本本国、カリフォルニア、フィリピンに分散させており、大久保忠隣を父の傍に置いていた。
父にしてみれば莫逆の友と言える本多正信や、弟の秀忠と親しい大久保忠隣を父の傍に置くことで、父やその周囲を宥めて、それなり以上に私は父を重んじているという態度を示したのだ。
その一方で、日本本国やフィリピンの安定は、徳川家中のいわゆる武闘派を、積極的にカリフォルニアに誘うことになった。
何しろ、私は言動の端々で、何れはスペインと戦争をする決意を示している。
更に言えば、日本の現状から考えて、スペインと戦争をするとなると、その主戦場がカリフォルニアからメキシコ方面になるのは自明の理だった。
そして、主戦場で武功を挙げることを考えるならば。
現在、生き残っている徳川家中の武闘派で一、二を争う本多忠勝や榊原康政以下の面々が、カリフォルニアに赴くことを自ら希望して、この地に駆けつけるのも当然としか言いようが無かった。
後、この際に述べるなら、私自身に日本本国に帰るつもりが無かったのもある。
この世界に来て、それこそフィリピンからカリフォルニアまで赴いていたのだ。
この際、この世界で行ける限りのところに赴きたいものだ。
そんな想いが私はしてならなくなっていたのだ。
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