第10話
そんな裏働きをしつつ、自らを文武両道で鍛えていると、予想通りと言ってよいのか、武田家と今川家は手切れ、同盟破棄をして、1568年12月に駿河に武田軍が攻め込む事態が起きた。
それに呼応して、私の父の徳川家康も武田家と同盟して遠江に攻め込むことになった。
この戦争の概況だが、私には精確な所が分からないが、武田信玄、私の父の徳川家康双方がお互いに都合の良い考えで同盟を締結して、今川家を攻めていたようだ。
更に言えば、こういった裏事情から、お互いに話が違うとして、武田信玄も徳川家康も同盟を破棄すると激怒する事態が起きた。
更にこのことは織田家にまで飛び火して、どちらに信長殿は味方するのか、と双方が暗に信長に詰問する事態にまで発展してしまった。
私なりの理解で言えば、駿河は武田家が、遠江は徳川家がというのが同盟の際の基本だったようだが、その一方でお互いに切り取り次第ということにもしていたらしい。
更にこの時代ならばよくあることだが、駿河、遠江の国衆にお互いに空手形を切りまくって、自分の味方にするようなことまでしていた。
だから、いざ今川方への徳川、武田の侵攻作戦が始まれば、国衆がその空手形を示して、こういった約束が為されています、と訴える事態が多発したようだ。
更に徳川家は何だかんだ言っても、私の母の関係から今川家の準親族と見られていたが、武田家は甲斐源氏の正統後継者といえる家であり、今川家からすれば余所者もいいところで、駿河、遠江の国衆の多くもそう考えていたのだ。
だから、皮肉なことに今川家に服していた駿河、遠江の国衆の多くが徳川家になびく事態が起きた。
(更に言えば、武田、徳川両家の駿河、遠江侵攻に際して、これまでの恩義から北条家が速やかに今川家救援の為に大軍を動かすことになり、そのために武田軍のほぼ全力が北条軍と睨み合わねばならなくなる一方で、徳川家は自らの領土拡大、遠江の領土獲得に注力したことから、信玄にしてみれば、何で家康は武田家に援軍を送らないのか、と逆恨みに近い感情まで抱くことになったらしい)
だが、その裏で、私なりにそれなりに自分の価値を高める方策に奔っていたのも現実だった。
既述のように、鉄砲及びその弾薬確保が少しでもできるように、私は石川数正らを動かしていた。
そして、それは全くムダではなく、志摩水軍の一部が様々な縁から、徳川家に協力しても良いという態度を徐々に示すようになっていたのだ。
協力してくれると言っても、貰えるモノを貰えればという事に過ぎないが、そうはいっても他国の水軍衆の一部が味方してくれるようになったのは、私にしてみれば望外のことだった。
更に本願寺との隠れた縁等も相まって、南蛮人が日本に来るようになっており、彼らが知っているこの時代の天測航法(のレベル等)も私は知ることができた。
そして、それを私の前世知識等から、改善を図ることにして。
1569年1月のある日、志摩水軍の一員である小浜景隆は私の下を訪ねて来ていた。
この当時、志摩水軍は極めて微妙な情勢下にあった。
伊勢の大勢力である北畠具教の下に志摩水軍の多くが名目上はあったのだが、実際にはほぼ独立勢力の集まりと言っても過言では無かった。
その一方で、北畠具教は織田信長と敵対していて、信長は伊勢へ攻め込んでおり、更に志摩から当時は追われていた九鬼嘉隆が、尾張水軍の援助を受けて、志摩に攻め込む事態が起きていた。
そして、この織田・北畠戦争の結果として、小浜景隆は志摩からの退去を考え、安宅船に乗って三河に来る事態が起きていたのだ。
私は石川数正を表に出し、自らの考えた六分儀等を使った天測航法を示すことにした。
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