大学1年生
一言で言うと、「入る大学、間違えた。」である。
入学して1ヶ月で、大学を辞めたくなった。
入学当初は、右も左分からず、職員の言う通りのガイダンスに従い、履修科目の登録、提出等、事務作業をして過ごしていた。その際も、同級生は、知り合いがいるのであろうか、わいわい賑やかにキャンパスライフを楽しんでいるようであった。
履修登録も終わり、いざ講師陣の授業が始まったのだが、授業が全く聞こえないくらい、生徒間の雑談が酷い。内容は、バイトがどうだ、コンパがどうだ、など他愛のないことだ。雑談による雑音は、日を追うごとに大きくなっていく。ある授業では、教授が
「静かにしろ!」
と本気で怒鳴っていた。ここは、学級崩壊した小学校かと一瞬、考えてしまった。
休憩時間は好きなことをすればいいが、なぜ休憩時間の話題を、授業中まで持ち込むのだろう。大手を降って話すことではないが、私は高校の現役時代、確かに勉強しなかった。でも、授業中、寝るなりなんなりで時間を過ごし、他人の邪魔をした記憶は一度もない。入学させて下さいと頭を下げて入試を突破し、高い授業料を払って入った大学だ。国公立大学だったら、まだ自分でバイトして稼げない授業料でもない。しかし、ここは私立の理系の大学だ。正直、親に申し訳ないという気持ちが頭を過ぎった。
関東の人間は、そんな事は、気にしないのか、育った環境が違うと言うのは、こう言うことを言うのだな、と自嘲気味に思いながら、授業に集中しようとする。滑り止めで受けた私立大学だが、工学部と言うこともあり、授業自体は高校よりも専門性が高く、新しい概念も入ってくる。ただし、導入は高校レベルから始めてくれるので、
受験勉強で培った知識は、意外と流用できる。高校入学時に味わった、中学レベルから高校レベルへの急激な変化はなく、しっかり授業内容が理解できる。周りは授業の出席が欲しい人間が多いから、授業で分からない事があった時、授業後、教授陣に質問をしに行く人間はほんの僅かだ。私は、高校時代、授業について行けなくなった苦い思い出を大学でもしたくなったから、不明点があった時は、積極的に教授陣に質問にいった。私が通った大学の教授陣は、高校の先生と違い、どうやら教えたがりだったらしい。時間外の質問に対しても、丁寧に回答してくれた。
高校時代の過ちを繰り返さないと言う意味では、私は、大学生になって初めて、予習、復習を行うようになった。予習のできる科目に関しては、できるだけ疑問点が授業で解決できるよう、入念に準備を行った、特に第1外国語の英語、第2外国語で選択したドイツ語に関しては、徹底的に単語、文法を調べた。語学だけは、一夜漬けでどうすることもできない。継続的な学習が必要だ。ある時、ドイツ語の講師の先生から、「ドイツ語のレベルが簡単すぎたら、申し出てください。」と、最上級のお褒めの言葉を頂いたが、丁重にお断りした。まずは授業をしっかり理解することが重要だ。今、振り返ってみると、当時、あれだけ努力したドイツ語の内容をほぼ憶えていないので、学生時代にドイツ語検定を受けておけば良かったと、後悔している。また大学の授業では、教授陣の頭の中にテキストがあり、事前に予習できない授業も多い。その場合は、授業の中でできるだけ内容を理解し、家に帰って復習する際、再構築できるまで繰り返し、自分の知識として身に着けることを念頭においた。この辺は、工学系ということもあり、受験勉強で得意科目になった物理での経験が応用できた。数式を展開し、その理屈を理解する。その作業は、自分の中で嫌いな作業ではないらしい。相変わらず、授業中は生徒間の雑談がうるさいが、そんな予習、復習を繰り返すことで、自分の気持ちをなんとか繋いでいた。
工学系の場合、1年時は実験もあるため、拘束時間は意外と長い。朝から夕方まで大学にいることもザラにある。また、私は、教員免許の取得も視野に入れることにした。大学を卒業した後、一人前で飯が食える実力をつけたいが、大学の授業だけでは心もとない。しかし、他に学校に通って、資格勉強するだけのお金がない。そこで候補に挙がったのが、教員免許の取得だ。大学側のアナウンスによると、4年間で通常より20単位多く履修し、単位取得すると、私の所属する学科では、数学の教員免許が付与されるらしい。しかも20単位分、別の料金は取られずに済むらしい。お金のない私にとっては、有り難い話だ。20歳を過ぎてからの大学入学で、サークルなどのチャラさには多分ついていけず、サークルに入るつもりもなかった私としては、4年間で20単位増くらいであれば、多分単位取得も可能だろうと思い、思い切って、教員免許取得に挑戦してみることにした。
また、大学のアナウンスで、教員免許は、国から発行されるものではなく、都道府県などの地方自治体から発行されることを初めて知った。そして、これは社会人になってから聞いた話だが、文系の教育学部以外で教員免許を取得する場合、4年間で90単位ぐらい、上乗せで取得する必要があるらしい。理系の場合は、教養過程の科目が、そのまま科目専門の単位に振替られるから、教員養成に必要な20単位分だけを取得すればいい、というからくりらしい。この点では、理系を選択して良かった、と素直に思えた。
工学部の通常の授業に加え、教員養成の単位を取得することになり、私の大学に居る時間は、さらに長くなった。同級生達が、四六時中、話をしており、よくそんなに話すことが有るものだ、と心の中で思いながら、新しい環境に徐々に慣れていった。
時間が経過するのは早いもので、日々を真面目に過ごしていたら、1年目の前期の期末試験の時期がやってきた。難易度は、思ったよりも高くはないが、受講している科目が多いので、その分、試験に向けて準備も大変だ。通常出席で単位をくれる科目は、2割程しかなく、残り8割は、試験で及第点を取ることが必須となっている。私は、試験の始まる1ヶ月前から、本格的に試験準備を行うことにした。具体的には、それまでに習った講義の内容を復習することだ。当時は、書くことにより、色々な事を記憶できると信じていたので、講義の内容を何も見ないで再現できるまで、数式の展開を体に憶えこませた。難しい概念も、繰り返す事によって、自分の知識として定着していく。私は、再現度が深くなる度に、自信を膨らませていった。
試験期間が近くなるにつれ、不思議な現象が起こった。これまで話したことも無いような同級生から、私のノートをコピーさせて欲しい、と頼まれることが増えたのであった。どうやら、授業は真面目に受けたくない、でも単位は欲しい、と言う矛盾した思考の終着駅が、真面目に授業を受けている私から、ノートを借りるという行為につながったらしい。心のなかでは、話している暇があれば、真面目に授業を受ければいいのに、と思いながら、頼まれた同級生には、ほぼ無償でノートを貸してあげた。その場しのぎで知識を詰め込んで、単位は取れるかも知れないが、人間として、何も掴むことはできないだろう、と急に思い至ったのが、その理由だ。私は、大学で何も成し遂げていない、むしろ、高校で勉強をサボった分、マイナスからのスタートだ、とぐっと気持ちを抑え、同級生にノードを渡した。社会人になってから聞いた話だが、大学の講義のノートを金銭で取引していた人がいるらしい。今、考えると、私のノートも適正価格で販売すれば、結構な小遣い稼ぎになったのではないかと思う。
不思議な現象は過ぎ、いよいよ試験当日となった。試験らしい試験は、入試以来である。前日、寝る前に軽く緊張したが、大学の単位を落としても、死ぬ訳ではないと思い直し、そのまま眠りについた。試験自体は、事前に準備した甲斐があり、解答できたという、手応えを掴めた。唯一、物理学系の試験で、講義で聞いた内容と異なる問題が出題され、講義で習った内容と、自分のありったけの知識を総動員して、解答を作成した。テスト終了後、たまたま、その講義を教えていた教授が試験官をされていたので、思い切って試験に関する質問をしてみた。すると、私がひねり出した解答は、どうやら前提条件が間違えていることに気づいた。気づいた時は、教授の前で頭を抱えたくなったが、その場はなんとかやり過ごし、次の試験科目に集中することにした。終わったことは、後悔しても仕方ない。後日、試験の結果が個別に学生に連絡されたが、先程の教科、なぜか一番よい、A判定を頂いた。どうやら、私が間違えたのは、前提条件の作り方だけだったらしく、その後の展開の考え方は、間違えていなかったらしい。合否のある大学受験では、確実に落とされる内容だが、大学では、論旨がしっかりしていれば、多少の失敗は多目にみてくれる教授が多いらしい。この後、大学の学部生の間に、似たような経験を、2、3回、体験したことがある。テストを解くことと、学問を学ぶことの違いについて、考えさせられる事柄であった。大学の学部卒で、卒業論文を書かなかった方は、その両者の違いについて、混同されている方も多い。卒業論文や修士論文の執筆で、かなり痛い目にあった私としては、両者には歴然とした差があり、どちらが優秀、ということではなく、そもそもの根本が違うことを強調しておきたい。スポーツでいうと、両者には競技が違うくらいの差異はある。間違っても、テストを解くのが得意だからといって、学問を学ぶために研究の道を選んではいけない。少なくとも、研究の道を選ぶ前に、学部時代に体験をしておくことをお勧めする。
試験は2週間程度で終わり、7月末から9月末までの約2ヶ月、夏休み期間に突入した。これまでの文面には登場しなかったが、大学の講義を受ける際、私は全く孤立していた訳ではなく、体育の授業から仲良くなったつてをたどって、決して多くはないが、友人と呼べる人が数人できていた。元々、工学部なので、女性の割合は低く、もちろんその数人の友人も全て男性だ。試験終了後、打ち上げで居酒屋に行ったり、徹夜でゲームをしたりして楽しい一時を過ごした。友人の地元は全員異なり、私を含め、お盆を実家で過ごす人もいたため、夏休み中は、基本、友人とは連絡を取らなかった。夏休みに入り、1週間は、本当に自分のやりたいことだけをやった。夜遅くまで好きな小説を読み、明け方に眠り、昼過ぎに起きる。下手をすると、1日、全く誰とも話さない日もあった。誰からも、何も言われる事はない。うるさい同級生もいない。至福の一時だった。ただ、1週間を過ぎ、10日も経つ頃になると、どうしようもない虚無感に襲われた。高校の同級生から2年遅れで大学生をしていること、交通事故で左足が運動できるまで回復していないこと、ネガティブな事ばかりが頭の中で反響する。夏休み前に、友人から、ロックンローラは自分で髪を切ると聞いた。
東京に来てから、馴染みの床屋も無い私は、その言葉を思い出し、風呂場で手鏡片手に髪を切ってみた。取り掛かってはみたものの、やはり上手くはいかない。明治時代のザンギリ頭のような、髪型になった。また、元々髭が濃かったので、これを契機に無精髭を伸ばしてみることにした。無精髭を伸ばすと、かっこいいことを言っても、ただ髭を剃るのが面倒になっただけだ。近くのレンタルビデオ店で、ビデオを物色していた時に、幼い子どもと目があったが、子どもがフリーズして動かなくなった。子どもの親がそれを見つけて、慌てて子どもの腕を引っ張って、どこかに行った。私の風貌は、だいぶ浮世離れしてきたらしい。
盆休みで帰省する前、旧友に連絡して、仙台で2泊、泊めてもらうことにした。旧友は、高校のサッカー部で同期だったが、運動神経が良いだけでなく、頭脳明晰であった。現在は、仙台の大学にある医学部に通っている。旧友は、高校からサッカーを始めたため、小学校からサッカー経験のある私のレベルまで、高校在学中には追いつけなかったが、高校で旧友よりサッカーが上手かった、という一点だけで、友達関係が続いている。事前連絡はしていたものの、旧友にも予定はあっただろうに、旧友は私の訪問を拒みはしなかった。また、旧友は、ザンギリ頭で髭が伸び放題の私の風貌にも、特別、意見をしてこなかった。そんな気遣いが、有り難かった。実家の秋田から、仙台の大学に進学している知人は多い。私は、知人との再開を楽しみながら、仙台での2泊3日の旅を楽しんだ。
旧友の家を出て実家に帰る途中の仙台の地下鉄の駅のトイレで、一応、髭だけは剃っておいた。私の両親、特に母親は、外見を非常に気にする人間だったため、実家に居る間は、一応、普通の格好をしていなければならない。旧友の家の洗面台を汚すわけにもいかなかったので、地下鉄のトイレで急遽、髭を剃った次第だ。高々2週間、髭を剃らなかっただけであるが、いざ、剃り始めてみると、見事に剃れない。すぐに髭剃りの刃に髭が挟まる。刃に挟まった髭を何度も何度も洗い流して、20分くらいで、ようやく、顔から髭が無くなった。髭剃り用の安全剃刀を使用したが、首周りが、所々、軽く出血している。まあ、許容範囲だ。私は、荷物を新たにまとめ、仙台駅から秋田行きの新幹線に乗車した。
実家に到着して、早速、母親から髪の指摘を受け、近くの床屋で髪を揃えてもらった。進学先が東京とは言え、23区外で、しかも郡に住んでいるため、その辺の地方都市と大差はなく、徒歩圏内には床屋はない。お洒落に鈍感な私は、知らない土地では、美容室でなく、理容室であっても、気後れしてしまう。気心が知れた理容師さんに髪を切ってもらい、多少落ち着いた。帰省は10日間程度だが、田舎の親戚付き合いなど、気を使う行事が目白押しだ。毎年、お盆と正月には、まだ健在な母方の祖父の家に集まり、食事会を行うことになっている。私の母の弟、私の叔父にあたる人物だが、いい意味で言うと、裏表のない性格で、こちらが隠したい内容でも、問答無用で問いかけてくる。中学、高校の時は、流石にこちらもムキになって対応していたが、実家を離れ、親のお金で東京の出してもらっている手前、当たらず触らずの回答をすることにした。祖父母には、共働きの両親に変わり、私の面倒をみてもらった恩もあるので、普通に対応した。言葉の端々に注意をするのは、気を使う作業だが、なんとか、その食事会をやり過ごした。親戚が多い家ではなく、父方の親戚は他県に移住しており、親戚の集まりが多くないのは、助かった。私の実家は、周囲は田んぼに囲まれ、地元の本屋もコンビニも潰れた。帰省の残り時間は、趣味の読書をしたり、持参した大学の教科書の演習問題を解いたりして、過ごした。私は勉強熱心な訳ではなかったが、受験生の時に比べ、物理の問題を解く能力が衰えたことを感じていた。受験時の能力を80と数値化すると、その時は、60ぐらいまで低下していたように感じた。せっかく身につけた能力を使わずに衰えさせるのは勿体ない。また、大学入学時、履修登録に合わせ、専門の教科書を強制的に購入させられた。レベルの高い大学だと、通年の授業で教科書1冊を終わらせるのだろうが、
私の大学では、教科書の一部分だけ授業で採用し、その他の部分は授業では取り扱わないことになっていた。これでは、あまりに勿体ない。左記2つの勿体ないが重なり、教科書のうち、大学の授業で取り扱わない部分に関して、自分なりに勉強することにした。教科書に書いてあることを理解し、演習問題でその理解度を確認する。これは、大学入試で、さんざん繰り返して、自分で身につけた勉強法だ。理系の学問の場合、演習問題を解くことで、自分の習熟度が分かるので、俗に言う、分かったつもり、の理解は、自分の注意次第で避けられる。2時間読書したら1時間教科書の勉強、みたいな形で、実家での日々を過ごしていった。
帰省が終了して、神奈川県にあるアパートに戻り、不在中、ダニが繁殖していたため、部屋を徹底的に掃除した以外は、相変わらず、深夜まで読書し、昼前に起き、日中を読書か学習して過ごす、というサイクルを繰り返していた。子供の頃から、宵っ張りの朝寝坊を地でいく生徒だったため、朝、何かを行うよりも、夕方、または夜にかけて、何かを行う方が、自分にとって効率が良いことは、体感として知っていた。この夏休み期間は、私にとって、久々の自由時間となった。夏休み期間の短期バイトで、お金を稼ぐことも考えた。しかし、ここ2年間、ひたすら入試日に向けて、勉強を繰り返していたので、少し、休みの期間が欲しかったこと、親から外食などの贅沢をしなければ十分に生活できる仕送りを貰っていたことから、夏休みは、短期バイトをすることをやめた。
ただ、今後、バイトする時のことを考慮して、家庭教師のバイトの登録だけはしておいた。バイトの派遣先は、小、中、高校生の学生の自宅らしい。2年時からキャンパスが、東京の郊外に変更になることも、登録の時に、先方に話しておいた。
9月中旬になり、私は、十分な休養を経て、大学の後期の授業に臨んだ。教室内は、今度は夏休みの間にあった出来事の情報交換で、騒がしい。小学生ではないのだから、授業の最中ぐらいは、黙って寝るなり、漫画を読むなり、できないものかと思いながら、授業を受け続けた。前期と同様、後期も朝から夕方まで、授業は隙間なしに詰まっている。
私は、相変わらず、予習できる授業は予習を行い、予習できない授業は、復習を繰り返すことで、自分の知識の幅を広げていった。
ただ、夏休みで一旦リフレッシュされたとは言え、騒がしい環境で授業を集中して聞いていると、ストレスも溜まっていく。私は、授業の負担が軽い日の夜や、週末の夜に、自宅で酒を飲む事が多くなっていった。最初はビール1杯くらいで、気持ちが落ち着いていたが、徐々にビールが3杯、ビールがワインに変わり、ワイン1本、ワインで物足りなくなり、ウィスキーに手を出す事態となり、酒量が増えていった。酒量が増えても、自分1人で自己完結している分には問題はないが、私には、酒を飲んだ時、人に絡む癖がある。この場合は、酔った勢いで、高校時代の友人に、固定電話から電話をかけ、如何に自分の境遇が酷いかを何遍も違う相手に話していた。勉強はできるようになったが、孤独でいることに慣れる精神力は、まだ無かったららしい。一度、電話口で友人に喝を入れられ、酒を1週間やめて、その後、高校時代の走り込みをやってみたが、20分で古傷の左足首が痛みだし、また酒を飲むことに逃げていた。
前の日、どれだけ酒を飲んで、電話で友人に管を巻いても、次の日の大学の授業は休まなかった。なぜなら、学費がとんでもなく高かったからだ。二日酔いが酷く、大学をサボることも頭をよぎるのだが、その度に授業料を授業数で割り算し、1単位あたりの授業の単価を割り出し、その単価をコマ数で割ってみた。結果、1回の授業が、1万円を超えていた。
今、考えると、授業料には、大学の設備維持費等も含まれており、そんな単純計算で1回の授業料は計算できないのであるが、当時は、その事実に気づく度、酔が冷めて大学に行く準備を整える自分がいた。授業中、周りは酒臭い私を敬遠していたかも知れないが、そこはお互い様、と思い、授業に集中した。
前期と異なるのは、後期は正月を挟んで、1月中旬から期末の試験が始まることだ。私も一応、年末は帰省する予定であったので、期末試験の対策どうするべきか、少し悩んでみた。結果、工学に関係する科目で、荷物になりにくい講義ノートが中心の科目のノートを持参し、実家で勉強することにした。繰り返すが、私は勉強が好きな訳ではない。せっかく身につけた学力を無駄にしたくないのと、高いお金を出して受けている授業の単位を落としたくないだけだ。時間が空いている時は、とにかく数式を書いて、体に数式を憶え込ませるように、復習を繰り返した。年末年始ということもあり、例年の親戚の集まりの他に、高校時代のサッカー部の集まりから、声がかかった。サッカー部では、私ともう1人が2浪しており、その2名には、2年間、声を掛けにくかったのだろうと推測した。
雪の降りしきる秋田の居酒屋で、サッカー部の集まりに参加した。現役で入学した者は、もう大学3年生を過ごしている。私の酒癖の悪さは、集まった全員が知るところなので、私もビールでお茶を濁しながら、極力、先方の話に合わせていた。当たり障りのない話題で時が過ぎていく。それでも、高校時代、一時は苦楽を共にした仲間であるので、余計なことは偶に言うくらいで、私もできるだけ大人しくしていた。飲み会は3次会まで開かれ、それを予想していなかった私は、最後の締めのラーメンを食べる段になって、手持ちの金がなくなり、仲間からお金を借りた。
いつ返せるか分からない金なので、現金書留で返金すると伝えたが、現金書留の方が余計お金が掛かると、この案は断られた。
1月中旬からの期末試験に向けて、正月も、然程夜ふかしをせず、それなりに規則正しい生活を心掛けたため、正月明けの授業でも、体調面での問題はなかった。唯一、土曜の1限目に行われる英語の授業、最終講義日のテストの時、思いっきり寝坊した。起きたら、試験10分前だった。私は普段、上下運動ジャージで過ごしているのだが、その時は、そのままの格好で飛び起き、普段20分掛かる教室までの道のりを10分で踏破し、なんとかテストを受験させてもらった。講師の方は、女性だったが、私の姿に、多少驚いてはいた。
テスト自体は、ヒアリング中心で、事前対策ができないものであり、私は聞いた内容をそのまま解答欄に記載し、30分程度でテストを終えた。その日は、流石に自分の服装がおかしいことを自覚していたし、その後、授業もなかったため、友人の誰にも会わず、そのまま家に帰宅した。後に、英語の単位は、無事に取得できたことを、成績表で確認した。
試験期間が近くなり、また、私の講義ノートを借りる同級生が増えてきた。正月開けから対策して、流石、現役合格した学生は、頭の出来が違うのだな、と思いつつ、無償でノートを貸していた。試験期間となり、一般教養を含め、日に4科目あった時は、流石に悲鳴をあげたが、なんとかやり過ごし、全ての試験を受け終えた。2年時に進級する前に、成績表が各人に送付されるが、1年時、私は単位を落とさなかった。私の大学では、成績表は、A~Eの判定で、Aが一番良く、Eは成績が足りず、単位を落とすことを意味するのだが、
私の成績表は、ほぼ、AかBで単位欄が埋まっていた。もちろんCもあったが、数えるくらいだったと、記憶している。私は、成績が良かったことよりも、単位を落とさず2年時に進級できることに安堵していた。
2年時から、新宿から中央線に乗って20分くらいの東京郊外のキャンパスで授業を受けることになる。このまま、神奈川県から引っ越さないで通学する手段もあるが、通学に約2時間かかる。これでは本末転倒だ。私は、東京郊外のキャンパスの近郊に住むため、引っ越しを決意した。引っ越すにしても、土地勘が全く無い。大学の生徒課では、地方出身者向けに大学近郊の賃貸物件の斡旋も行っている。私は、まずは生徒課の斡旋を受けてみることにした。家賃と通学距離とを勘案した結果、キャンパスの隣の駅から徒歩15分の所に、それなりのアパートを見つけた。大学までは自転車で30分圏内だが、部屋が多少狭い。少し迷っていると、友人は、大学での斡旋では満足いく物件が見つけられず、不動産店で物件を探したとのこと。同じ不動産店に行き、手頃な物件がないか、問い合わせた所、先程の物件より少し高いが、大学に近く、部屋も広いアパートを紹介された。どちらにするか、悩んだ挙げ句、大学から斡旋されたアパートの大家の圧力に押され、少し狭いアパートに引っ越すことになった。
引っ越し当日、転居先で洗濯機が上手くつながらず水が漏れ、下の住人の怒りを買うことになったが、大きなトラブルはそのくらいで、私は、2年目で、郊外ではあるが、東京都に住むことになった。