大学入学前
大学に行く意味が、分からなかった。父親が唯一、地元の国立大学を出ているが、親戚に大学を出た者はいない。みんな高卒、それでも地元で職を得て、働いている。父親も特別、頭が切れる印象はなく、家具の組み立てや、電気の配線は、むしろ苦手のようだ。大学を出ていても、苦手なことはあるのだな、と感じた日常の一コマだ。母親が教育熱心だったためか、公立中学での勉強で、然程、苦労した憶えはない。高校入試をする段階になって、応用問題で手こずるようになり、中3の夏休みから
進学塾に通った。
進学塾では、成績順でクラス分けをされる、という初めての経験をし、最初、私は上から3番目のクラスに入塾となった。それまで、集中して勉強というものをやってこなかったから、順番がつくのは仕方がない。粛々と勉強を進め、高校入試では、大きな失敗もなく、それなりに問題を解き、県内で大学進学率が一番高い高校に入学することができた。
高校では、中学から続けたサッカー部に入部したが、高校の部活は、体力面、技術面共に私の予想を上回っていた。必死に食らいついていたが、在籍3年間で、高2の4月から8月の間だけ、レギュラーとして試合に出ることができた。高2の夏の合宿の練習試合で相手選手と接触した際、膝を強打し、病院での診断の結果、それが剥離骨折だったことが判明した。2ヶ月のリハビリ後、部活に戻ったが、以前のような体のキレは戻ること無く、最高学年でも、試合に出ることは無かった。文武両道を謳う校風だったが、高1の時点で、教師の話している内容が理解できず、落ちこぼれた。大学進学に向けて、科目を絞る等、対策を立てればよかったが、高校で植え付けられた劣等感は払拭できず、しかし自尊心だけは高く、5教科が必要な国立大理系を選択し、受験勉強をしてみた。
現役時代は国立大学しか受けなかったが、前記、後期、共に受かること無く、そのまま長い浪人生活に入った。
1年目は、仙台の予備校に通わせてもらい、予備校の寮で生活させてもらった。当時は受験生の数が多く、私の高校で現役合格できなかった者は、東京か仙台の大手予備校に通い、来年の受験に備える者が多かった。私も、東京に憧れはなかったので、特別な考えなしに、仙台の大手予備校を選択し、寮生活を送ることになった。予備校の授業は、講師の教え方も上手く、知らない知識を憶えていくには、いい機会ではあった。ただ、高校3年間で身についた劣等感は、軽く払拭できるものではなく、成績の伸び具合は、微増ぐらいであった。
仙台の予備校に通うようになって2ヶ月目に入ったところで、帰り道、交通事故に遭った。当日、私は通学で使用していた自転車の鍵を無くしてしまい、仕方なく、予備校からランニングして寮に帰る途中だった。久々の運動で、気分よくランニングしていて、歩行者信号が赤から青に代わる瞬間に飛び出したところ、世界が回転した。どうやら、信号が黄色から赤に代わる瞬間に右折してきたタクシーに轢かれたらしい。心臓の鼓動がいつもより早いことに気づく。そして、左足の痛みに気づいた。左足首がジンジンしている。骨折したときと同じ症状だ。後から警察で事故現場の写真を見せられたり、親切な歩行者の方が警察に現場の状況を話してくれて分かったことだが、私は、左足首をタクシーの右前輪で轢かれたらしい。反射神経がいいのか悪いのか、轢かれた瞬間、とっさに両腕でタクシーのドアを押していたらしく、タクシーのドアが凹む形で、その痕跡が残っていた。また左足を踏まれタクシーの進行方向に体を投げたされたが、柔道でいう前回り受け身を取る形を無意識に取っており、リュックサックがクッションの代わりとなり、その時、左足以外に大きな損傷はなかった。流石に運転手もまずいと思ったらしい、すぐにタクシーから降り、私の元に駆けつけた。その間にも左足はどんどん腫れ上がっていく。歩行者の方が、警察と救急車を要請する様、運転手に口利きをしてくれて、運転手はその言葉に従っていた。私は、サッカー部時代の応急処置の方法を思い出し、冷やすものと固定するものを運転手に要求した。
程なく、救急車が現場に到着、私は、緊急受け入れしてくれる個人病院に運搬され、 そのまま入院することになった。緊急事態でアドレナリンが出まくっていた私は、搬送先の病院で、夜間にも関わらず、事あるごとに1人で突っ込んでいたため、当直の看護師から、きつく注意を受けた。一日寝て翌日、左足をみてみると、脛から下にタイヤ痕が刻まれ、見事なほどに腫れ上がっていた。医師からは左足首の剥離骨折と内出血があるため、暫く固定し、自分で歩けるようになるまで入院となることを告げられた。結局、この怪我は治ること無く、私はリハビリで10ヶ月間、その病院に週3回、通い続けた。入院中、元々頭痛持ちだった私が、むち打ち症状で頭痛が悪化したことを医師に伝えると、麻酔科も併設していたその病院は、首元に神経ブロック注射を打つことを勧めてきた。その他に抗う手段もない私は、週3回、首元にブロック注射を打ってもらい、騙し騙し受験勉強を継続した。前述の通り、勉強の成果は、微増ではあるが現れはじめた。特に、物理に関しては、それなりに問題に解答ができるようになってきた。高校の教師の教え方は、本当に酷いものだと、つくづく実感させられた。受験先の候補としては、工学系、特に機械工学を学べる学部に照準を合わせていった。自分の偏差値がそこまで高くないのと、やりたくない事の選別を繰り返した結果、募集人員が多く、そこまで難易度が高くない、工学系の学部に行き着いた。工学系ではいろいろな分野があるが、そこは、以前興味のあった、ロボットにでも触れられればいいか、という思いから、機械工学が学べる学科を選択した。大学の難易度が上がると、理系は理科2科目が必須となり、私が目標としていた大学では、工学系の場合、物理と化学が必須となっていたが、私はこの化学が全く理解できなかった。予備校の質の高い講師陣の講義を聞いても、全く点数に結びつかない。受験科目で熱心に取り組んだ科目の中で、化学だけはどうしても点数が上がらなかった。私の中では、未だに、化学のできる人は、天才だと思っている。
国立大学の場合、1次試験でセンター試験があり、理系の受験生は、そこで5教科である、国語、数学、英語、理科(選択科目)、社会(選択科目)の試験を受ける。センター試験は、全てマークシート方式で、数学は数字をマークして回答する方式、それ以外の科目は、選択式となっている。センター試験によるボーダーラインの点数が、センター試験後、各大学から発表され、受験生は、そのボーダラインに達しているかどうかを、自己採点結果と照らし合わせ、2次試験の出願する大学を決定する。
私は、センター試験の模試は、800点満点の600点くらい、2次試験の科目の内、物理は得意、数学と英語は人並み、化学は分からない状態が続いたまま、受験シーズンに突入した。そして、1月のセンター試験で、衝撃的な出来事が発生した。私の次の学年で、文部科学省の教育過程が変わったのだが、その移行措置で出されたセンター試験の数学の旧過程の問題が、難しすぎたのだ。人生で初めて、試験時間内、全くペンが進まないまま、時間だけが過ぎていく体験をした。よりによって、本番でその体験をするとは、かなり運がない。浪人生の中でも、優秀層は、その難易度でも点数を取っていったが、中間層では、点数を落とす者が続出した。センター試験での失敗は、すなわち、国立大学への入試を受けることができない事につながる。私の住んでいた寮の大半は、一部の例外を残し、見事にセンター試験で点数を取れなかった。こうなると、ほぼ全員が、私立大学の入試に運命を委ねることになる。私は、関東、関西にある中堅クラスの5つの大学に願書を提出し、入試に臨んだ。それなりの手応えはあったのだが、5つとも、全部落ちた。寮の同級生が、私立大学の入学を確定させていくなか、私は、大学が決まらなかった。ダメ元で国立大学の前期日程、後期日程を受けたが、どちらも受からなかった。私は、浪人生活2年目を送ることになった。
2浪して初めて、私は、理科の選択科目を化学から生物に変更することにした。2浪目にしてようやく、自分が生物を得意にしていたことを思い出した。第一志望の大学の学部も、工学部から農学部に変更した。2浪もすると、形振り構ってはいられなくなる。この時、センターの受験科目をもう少し調べておけば良かったと、今は後悔している。社会は、日本史を選択し続けたが、理系の場合、現代社会や倫理でも受験できる国立大学があったらしい。点数の伸びない日本史に固執するよりも、憶えることの少ない、現代社会や倫理を勉強し、センター試験での保険をかけておくべきだった。
2浪目は、自宅に戻り、自宅から通える予備校に籍を置いた。浪人してから1年間、遊んでいた訳でもなく、真面目に授業も受けていたので、予備校で習う内容は、一通り理解していた。その予備校は、地元では有名だが、全国展開している訳ではなく、私が新たに選択した生物を教える講師は、在籍していなかった。生物は独学になったが、高校時代の参考書をもう一度復習すると、大半は理解でき、知識として憶えてしまえば、化学式のような展開が必要な内容はほぼ無かったため、模試の初回から点数が安定した。ここでも、自分の得意なことと不得意なことを明確にして、早めに対策を取るべきだったと、後悔した。予備校の授業があるときは出席して講義を聞き、空き時間には図書館や市の施設で、英文や英単語などを憶えながら、予備校生活を送った。順調に成績が伸び始め、その年の秋の模試でようやく、全てが噛み合い、第一志望の大学の判定で、B判定を記録した。A判定が一番良く、A判定でないことは残念だし、同級生から遅れること2年でようやく、それなりの手応えを感じ、少しだけ嬉しかった。
その後は、前回失敗したセンター試験の数学の過去問を解きまくり、センター数学への恐怖を無くすことと、物理の講師の方に頼んで、全国の大学入試で出題された物理の問題集を貸してもらい、東大・京大以外の大学の物理の問題を解きまくり、長所を伸ばすことに注力した。この時点で、数学ではあまり成績を残せなかったが、物理だけは、確実に人より点数が取れる状態になっていた。
志望校の選択だが、国立大学は農学部を軸に、センター試験で失敗した時は、理科は物理受験で工学部を受験できるように、選択肢を絞っていった。私立大学は、工学部では物理、農学部では生物、と受験科目が決まっており、これまでの努力を無駄にしたくなかったので、全て工学部を受験することにした。3浪目は流石に無理という親の判断で、昨年受験した関東、関西の4校に加え、宮城にある大学の工学部と、東京の名の知れた私立大学の工学部で、一番偏差値が低い学科を受験することになった。この大学の入試問題を2浪した5月に解いてみたが、この大学の名前はよく聞くが、名前の割に問題に変な癖がなく、5月の時点の学力で、ほぼ満点を取れた。相変わらず、私は、受験に関する情報収集能力が極端に低かっったと、後悔した。
秋の模試で第一志望の国立大学でB判定が出ているので、志望を予定している私立大学は、軒並みA判定が出ていた。予備校でも講師の方とコミュニケーションを蜜にして、苦手分野をどんどん減らしていった。 2浪目は、センター模試で640店程度、2次科目は、物理が得意、英語、数学、生物は人並みよりちょっと点数が取れるレベルで、受験シーズンに臨むことになった。 1月中旬、2日間のセンター試験を受けたが、本番で、取りこぼしを発生させてしまった。選択肢で悩んで選んだ方が間違っている、そんな状態が多発した。本番では、その年のセンター模試でも取ったことのない点数を取ってしまった。これには、かなり落胆した。第一志望の大学は、2次試験の配点が高く、2次試験での逆転が不可能ではないが、出願するにはリスクが高い。2日間ほど悩んだ結果、前期は、関東の国立大学の工学部で、
センター試験のボーダラインが低い学科に出願することにした。その代わり。後期は余裕でボーダラインを超えている地元の国立大学の工学部に出願し、万が一、全ての受験に失敗しても、大学生になれるよう、セーフティネットを張った。
国立大学に受かればそちらに進学するが、その前に私立大学の入試で、合格を勝ち取り、安定した状態で国立大学の2次試験に臨みたい。そんな気持ちで、6つの私立大学の受験に臨んだ。宮城の大学は、受験地として、地元の予備校が候補にあり、予備校で受験した。基礎レベルで、自己採点では、満点が取れたと思った。関西の2大学は、受験地として、仙台が候補にあり、仙台に宿泊し、受験した。2校とも、それなりに問題には回答できたと思った。関東の3校は、それぞれの校舎で受験した。滑り止めの大学の問題は、相変わらず癖がなく、ほぼ満点を取れたと思っった。残りの2校もそれなりの手応えがあった。結果、東京の滑り止めの私立大学1校、宮城の大学1校に合格した。残り4校は2年続けて落ちたことになる。滑り止めとは言え、2年間で初めてもらう合格通知、その時だけは嬉しかった。しかし、偏差値が52程度だったことを思い出し、すぐに冷静になった。本番の国立大学入試に、全力を注がないと、そんな気持ちになった。
国立大学入試の前日、大学のそばの宿舎に泊まった。急に宿を準備したため、5人部屋だった。見ず知らずの男性が5人集まって、次の日の試験に備える。考えると異様な光景だが、選択肢はなかった。その日は、意外とすんなり眠りにつけたことを憶えている。国立大学の入試問題で、難問と言える問題はなかった。全て問題なく、回答を進めることができた。問題の後半で、多少回答に苦慮するところはあったが、なんとか全て回答した。試験の手応え自体はあったのだが、やはり、国立大学の前期日程も不合格に終わった。
残すは国立大学の後期試験、地元の国立大の入試のみだ。大学の難易度、学費の安さを考慮すると、地元の国立大の工学部の方が、圧倒的にコストパフォマンスが良かった。東京の私立大学だと、学費だけで国立大の数倍掛かる。ここは観念して地元の国立大を受ける、と両親に伝えたのだが、東京の私立大学は、全国的な知名度がある大学で、地元の国立大を卒業しても就職がないとの噂を聞いていた両親は、せっかく受かったのだからと、東京の私立大学への入学を認めてくれた。先程も書いたが、偏差値は、52か53、偏差値の平均は50で、あまり勉強していなかった現役時代でさえ、偏差値50は超えていたのだから、現役の時に受ければ、受かっていたかもしれない大学だ。自分の努力とその結果の見合わなさを悔いながら、東京の私立大学の工学部に進学することに決定した。
入学する私立大学は、キャンパスが3つあり、工学部は、1年時は多摩地区にあるキャンパス、2年時から新宿から20分程度、電車に乗った郊外のキャンパスで授業を受けるらしい。20歳を過ぎてからの大学入学に、明るいキャンパスライフなど描いていなかった私は、多摩地区のキャンパスの近くで、通学に有利な場所を住居として選んだ。そこは、東京都と神奈川県と山梨県の県境が重なる地域で、私は、生まれて初めて、神奈川県の郡に住むことになった。
このような経緯を経て、交通事故で左足が上手く動かない、20歳の私立大学の工学部の学生が1人、誕生した。