短篇小説 ジャックナイフ
中小工務店社長の中田康夫は求人で会った工藤真理をはじめて見て、心の動揺を抑えることができなかったが
これが悲劇の始まりだった。
真理には誰にも言えない秘密があったのだ。
ジャックナイフ 惹かれる人妻
中田康夫は、久しぶりに会社で新聞を開くとある小さな記事に目を留めた。
ある中年男性が、若い女性をナイフで刺し、殺害した記事だった。
動機は恋愛感情のもつれらしい。
「ばかな男だ」康夫はつぶやいた。
分別ある年齢なのに、感情で人を殺害する。
康夫には信じられないことだった。
康夫がその記事を読み終わった頃、ある女性がオフィスに入ってきた。
康夫がその女工藤真理と会ったのは、事務の求人募集の面接であった。
身長は160センチくらい、年齢は35歳なのだが20代後半といってもいいくらい
若々しい、長い黒髪、白いワンピースと黒いスーツの上からもグラマーな
体はよくわかる。
康夫はまじまじと目が応接椅子に座った真理の体を追っていることに気づき、慌てて視線を落とした。
履歴書を見ると、既婚者で子供はいない。
住所は大阪でも高級住宅街の一角だ。
康夫は決まり通りの質問をした。
「経理事務の経験はありますか?」
「はい、職歴のとおり2年ほど小規模なメーカーで経理事務をやってました。」
女は答えた。
いくつかの質問のあと、康夫は
「では、採用にします。来週の月曜から来てください。」と言った。
履歴書は他に2通着ている。
しかし、両方とも50過ぎの女性だ。
いや、それが誰であろうと康夫はこの女に決めたに違いない。
康夫は今年で40歳になる20歳から今の工務店を立ち上げ、従業員5人の
会社までにした。
厳しい建築業界の中では出世組である。
25歳のときに一度結婚したが、3年ほどで離婚、子供はいない。
少しやせ気味であるが、体は筋肉質で精悍な顔立ちである。
真理は面接の翌週から出社した。
簿記の資格もあり、経理実務の経験もあるので仕事もテキパキこなす。
最初は出納だけの管理であったが、1ヶ月も経つと請求業務や業者への
支払い業務も任せるようになった。
現場が忙しいため、康夫は会社にいる時間がほとんどない。
朝は7時ころから、夜は10時ころまで休みなく働いた。
離婚してから2年、二三度遊びで付き合った女はいたが、
彼女と呼べる女はいない。
働き盛り、男盛りの康夫はそのバイタリティと裏腹の性欲にも
溢れていた。
ある夏の暑い日、遅まきながら真理の歓迎会を会社で
行うことになった。
その日真理は、体のラインがよくわかる黒のキャミソールに
膝上10センチの花柄スカートは人妻というより、OLいや
妖艶な水商売の女にも見えた。
会社の近くの居酒屋で康夫、真理を含め7人のこじんまり
した歓迎会が始まった。
真理は康夫の隣に座る。
甘い香水の香りが康夫の鼻をくすぐった。
真理は、3杯目の生ビールをお代わりした。
結構飲めるようだ。
ほんのり顔が赤くなり、益々妖艶なオーラを出している。
康夫は抑えきれない衝動を感じた。
夜も10時すぎると、皆杯を重ね酔いが回ってきた。
康夫の片腕である中井が康夫を挟み真理の隣に座り、馴れ馴れしく
肩に手を回している。
真理の体はほんのり赤くなり、その手を振り払うように
体をくねらせた。
その時、康夫の胸にその生々しい体が飛び込んできた。
真理は、「ごめんなさい。」と言い体を元に戻した。
康夫はそろそろいい時間だと思い、一番若い幹事の竹下に
歓迎会の終了を告げた。いや、真理に雄が群がるのを
避けたかったのだ。
竹下は、「宴もたけなわですが、これにてお開きとします。」
と勘定を始めた。
店を出て、康夫はごく自然に真理に「途中なので送っていこうか?」
と尋ねた。
真理は「いいんですか?」と案外素直に応じた。
康夫はタクシーを停め、先に真理を乗せ、自分も乗り込み
「千里山まで」と真理の住所を告げた。
その二人を従業員の嫉妬の目が追った。
車が走り出してしばらく、真理は「ずいぶん早いお開きなんですね。」
と言った。
「でも、だんなさんが待ってるでしょ?」と康夫は探るように返す。
「夫は単身赴任で3ヶ月に一度くらいしか帰らないんです。」
真理は少し誘うような声で言った。
「じゃあもう少し飲んで帰る?」康夫は衝動を抑え切れなかった。
二人は通りかかったワインバーで2,3杯グラスを重ねた。
真理は相当酔ったらさいく、甘い香りがする頭を康夫の肩に
預けてきた。
二人は、あたかもそれが運命であるように、ホテルに入った。
その後も康夫と真理は週に一回ほど関係をもった。
しかし、康夫の工務店の経営は忙しいのにも関わらず
儲からなかった。
月末になると経理をすべて任せている真理から
「社長 今月末は50万足りません」と電話があった。
そのたびに康夫は貯金を取り崩し、支払いに充てた。
お金が足りないことより、康夫は真理に無能な男と
言われているようで心が痛んだ。
年が明け1月になると、季節的なせいもあり資金繰りは
いよいよ悪くなった。
康夫は、貯金も底をつきいけないとは思いながら消費者金融から
お金を借りた。
その頃から 真理との関係も段々と悪化していった。
真理は、些細なことで康夫をことごとく非難するようになった。
まるで、人が変わったように。
ある雪が降る寒い夜。
康夫と真理はいつものホテルで情事を交わしたあと、最近常と
なっているように、真理は康夫の非難を始めた。
「何よ。無能のくせに」
真理が言い放った言葉に康夫はついかっとなり
軽く頬を叩いてしまった。
康夫はしまったと後悔したが、真理は頬を押さえ
部屋を出て行った。
翌日から真理は会社に出社しなかった。
何度も電話したが、留守電になった。
それから3日後の朝8時頃玄関のチャイムが激しく鳴った。
こんなに朝早く誰だろうと思いながら康夫がドアを開けると、
見慣れない男が二人立っていた。
康夫が誰だろうと思考を巡らしていると
「中田康夫さんですね。」東警察の者ですと警察手帳を
見せながら言った。
康夫が頷くと、背が低い方の50歳くらいの男が、
「工藤真理さんへの傷害容疑で逮捕します。」
と言った。
康夫は頭の中が真っ白になるのと同時に膝が崩れそうに
なるのを必死で耐えた。
康夫は手錠を架けられ東警察署まで連行された。
警察署までの途中何かの間違いだと何度も思った。
しかし、警察署で取り調べが始まると、思いがけない
現実が待っていた。
狭い取調室の中で見せられたのは、左頬が大きく赤く腫上がった
真理の顔写真だった。
白髪交じりの小太りな50代の刑事が
「工藤さんを殴ったのは間違いないな?」
と言った。
康夫は「平手で軽くぶっただけで、こんなには・・・」
と応えたが、頭が混乱していた。
康夫は真理との関係、真理を叩いたあの夜の一部始終を
洗いざらいしゃべり、刑事はそれを丹念に調書にとった。
康夫の拘留は長引いた。
康夫の顧問弁護士の太田は真理との示談を勧めたが
康夫は納得できなかった。
拘留から4日後若い社員の竹下が面会に来た。
「社長の逮捕が取引先に広がり仕事のキャンセルが多発してます。」
竹下は言った。
こんなに早く噂が広がるとは・・・
康夫は疑問に思った。
ある朝康夫は自分の姿を鏡でみて驚いた。
髪の毛が真っ白だったからである。
拘留が1ヶ月を過ぎ、康夫は心身とも疲労で限界に達していた。
再度面会に来た竹下から会社の従業員も去ってしまい、
片腕だった中井が独立開業し、取引先の多くを引き継いだ
ことを知った。
20年も苦労して育てた会社が一瞬にして無くなった
ことに愕然とし、立っていることがやっとであった。
心血を注いだ会社が消失した今康夫は自暴自棄になっていた。
数日後、顧問弁護士の太田から真理の方から示談の提示が
あったことを聞いた。
太田から渡された示談書の文面を読み、康夫の書面を持つ
手がブルブルと震えた。
「そういうことだったのか。」康夫の頭の中のもやもやとした霧が
晴れた感覚だった。
その示談書は、真理が会社から横領したお金につき
一切責任追及しないことを条件に傷害の告訴を取り下げるという
内容だったのだ。
真理が経理責任者となって急にお金が足りなくなったのは
真理が横領していたのだ。
本来なら康夫も気づくべきところ気づかなかったのは、真理に
対する愛情のため妄信していたためだった。
「やられた。」康夫はつぶやいた。
真理が悪態をついて康夫に叩かせる。
その後、わざと自分であるいは誰かに頬を叩かせ、腫らし
病院で診断書を取り、警察へ傷害の告訴をする。
そして、示談の条件で横領の責任追及を回避する。
すべて計算されたことであった。
康夫は怒りで真理を殺したい感情に襲われた。
しかし、康夫にはもう戦う気力は残っていなかった。
康夫は真理の示談に応じ、真理の告訴は取り下げられた。
書類送検されたが、軽微な罰金刑となった。
康夫は釈放され、2ヶ月ぶりに自由の身となった。
晴れて自由のみになった康夫だったが、会社も信用も
すべてなくなっていた。
久しぶりに自宅に戻った康夫はしばらく何もやる気が沸かなかったが
生活もあるため、知り合いの工務店で働くこととなった。
ある日康夫が社用車で現場に向かっている途中、信号で
停まっていると、見覚えのある男女が腕を組み歩道を歩いているのが
目に入った。
よく見ると、真理とかつての片腕中井であった。
「そうだったのか。」康夫はすべて理解できた。
きっと中井は真理の横領を気づき、脅迫 真理の体とお金の一部を
自分のものにしたのであろう。
そしてその犯罪をもみ消すために真理に知恵をさずけたに違いない。
康夫は道路の脇に車を停め、無意識に仕事に使うジャックナイフを
取り出した。
そして真理に向かい走り、一気にその刃を脇に突き刺した。
真理は驚いたような目で康夫を見て息絶えた。
なぜ、中井でなく真理を刺したのかわからない。
康夫の頭は混乱していた。いつか新聞に載っていた刺殺事件が
ふと頭をよぎった。
あの記事は自分のことだったのか。
その思考を打ち消すようにパトカーのサイレンの音が近づいてきた。
腹黒い人には気をつけましょう。
これからも腹黒シリーズとして
連載していきます。