庶民と富豪
「小学生のころ同じだったクラスメイトに、ちょっとした富豪の子息がいた。
私は彼と少しばかり親しく、何月かに一回ほど、家にお邪魔することもあった。
そこで彼が話してくれたことには、生涯にわたり職に付けなくとも一切困らない程、彼は親御さんから可愛がられていたらしい。
それを聞いた当時の私は、たしか、羨ましく思った記憶はあるのだが、恨めしく思ったことはなかったはずだ。
何故かといえば、あのとき小さかった私は、同じくらい小さかった彼の真の部分の性質に、自分と似た庶民性を見出していたからだと思う。
四年生か五年生の夏休みのときに、彼の家で二日寝泊まりしたことがあるのだが、その際に彼のお母さんがわざわさ私たちのためにクッキーを焼いてくれた。
二人とも手が進んで、最後の一個になったとき、真剣な奪い合いが起こった。
そういうところに密かな庶民性を見出していたのだろう」
そこまで日記を書いて、男はふと気づくところがあった。
——庶民性ではなく人間性ではないか?
クッキーを食べたいという食欲も、最後の一枚を渡したくないという独占欲も、それは全人間に備わっているはずの人間性であり、庶民性という後付けの概念と区別することは出来ないはずのものである。
仮に彼が一般庶民であるなら、私はこのエピソードに「庶民性」という言葉を用いていただろうか。
透明な色眼鏡に気づく。
あのころの私を残しておくために、男は消しゴムを手に取った。